芹田神社
せりたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】芹田神社 丹波国 氷上郡鎮座

   【現社名】芹田神社
   【住所】兵庫県丹波市氷上町鴨内37
       北緯35度13分29秒、東経135度2分44秒
   【祭神】高雄神命
   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】延喜5年(905)勸請
       中古兵乱で荒廃、今の地に遷座
       元禄15年(1702)造営
       明治6年10月村社、熊野神社を芹田神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】一説元は鹿場村に鎮座
        一説元は西南にセドの宮と稱する大森に鎮座
        中古兵乱で荒廃、今の地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「熊野権現社」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿

   【境内社】

古跡地と称するセドの宮は西南約600m、社前を流れる鴨内谷川が佐治川に合流する河成段丘上にあり、現在は民有地となっている。


芹田神社

時維元禄の頃、この辺を豊岡県丹州由良村の鴨内村と呼んでいた、当所初代の庄屋を六兵衛という人が務めた、その頃由良の(今の北由良)に別所豊後の守という士族あり一円を治めた。
偶々元禄13年元旦のこと、早朝降り積もった大雪の中を白馬に乗り六兵衛を尋ねられて「この村に熊野大権現をお祀りしているか、実は昨夜夢枕に立たれ『この村に社を建て祀ってくれ』とのお告げがあった」と申された、そこで六兵衛は「社祠はないが手洗鉢所に大きな石を立てて熊野三社大権現様と村人が崇拝しております」と申し上げた。早速豊後守は六兵衛を連れて山を上って見ると不思議にも一カ所だけ雪が無く地面が露出していたのであった。
豊後守は「ここだ、ここが神のお告げの所である」と言って六兵衛に神殿の建立を強く要請されて帰られたのであった。六兵衛は早速村人を集めて相談し神殿の造成に取りかかった。当時としては多くの資財と人力を費やしての大事業である。
六兵衛自らは周辺の所有する山林七尾七谷(約3町歩)を寄進したのである。これが今の本社殿と宮の谷風致林である。
本社殿の造成と共に蔵王権現、ご神木〔天照皇大神)、瀬戸宮、八幡宮、貴船宮、山の神、天王宮、正一位稲荷大明神を合祀された。
別に秋葉山社、大峰山社は芦田宗左衛門氏が祭祀された。本社殿の完成は元禄15年と本社殿棟札に残っている。

社頭掲示板



芹田神社

延喜5年(905)に創祀された古社である。慶長5年(1600)と元禄末年(1704)に遷座を行い、明治6年(1873)現在地に今の社殿を再建した。それまで熊野神社と称していたが、延喜式内社芹田神社として現在に至っている。祭神は馴染みはあまりないが、高雄神命(タカノオノカミノミコト)であり、本殿脇には元文3年(1738)の銘のある立派な石灯籠がある。
 本殿のある方へ少し登って行く。本殿は一間社流れ造り銅板葺である。ここにある彫り物は、中央向拝に比較的狭い梁間に力強い竜の彫り物が目に入る。骨太の造りである。口を大きく広げ舌の先が鋭く突っ立っている。銅線の髭はないが“いらか”は太くて迫力がある。目の周りの赤色が鮮やか。中央に太い爪で宝珠を握っている。明治6年、7代目中井権次正次が倅8代目正胤を早く自立させるために合作して完成させたと思考される。

丹波新聞2016年09月08日



芹田神社

延喜式内社沿革記 氷上郡には延喜式内社が17社あり、延喜式は醍醐天皇延喜5年秋8月より左大臣藤原時平勅を奉じて撰するところにして延長5年12月26日に成る。鴨内の西南にセドの宮と称する大森あり荒廃により慶長8年宮の谷の熊野神社境内に遷座す丹波誌に芹田大明神式内名神と記さる。

社頭掲示板



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