もとは現在地の東方約1.7キロの日ケ奥(日ヵ奧)に鎮座していたという。古跡は「あだか山」と呼ばれる。 ある時の洪水で現在地まで流れてきた。本殿背後の社叢の巨石群に御祭神の御魂が留まったという。 |
由緒 御由緒 創立年代は不詳なれども延喜式内の神社にして、延喜式神名帳(平安時代)に当社の社名、鎮座地が所載されております。 明応元年(1492)8月に再建され、元文4年(1739年)7月八朔祭も松明の火で炎上、寛保2年(1742年)9月に新築竣工し現在に至っております。 伝説には、欽明天皇即位3年(583年)春日部乙身勅命により幣物を奉ったと言れ、1400年以上も昔から鎮座されていた古社であります。 公卿や武家の崇敬が厚く、明治維新の元勲、岩倉具視は自筆の神号を奉納している。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
阿陀岡神社 敬神之道是王化之鴻基民風之棹幹也申孝食正之徳出於斯焉列聖紹緒先典大嘗之禮億兆頼慶咸竭誠敬之衷神社祭祀之義豈可不重乎我阿陀岡神社祭吾田鹿葺津姫命載在延喜式古置社坊爲隣郷首座中世漸衰大矢旧觀至明治六年列村社四十四年具幣帛供進之儀於是郷入胥謀欲修神域大正十一年二月起工十三年三月竣工經営社屋布置樹石百廃具興莊嚴既備此間賛事一千余人醵金三萬余圓茲建貞眠列靱篤志以埀不朽庶幾惠澤霑洽貽慶後昆哉茲誌其由繋之以銘銘日 鬱乎靈域 經始営成 維新之威 維民之誠 大正十三年五月吉日 社務所造営記念碑 大正十三年 |
阿陀岡神社 当社の主祭神は吾田鹿葦津比売命であり、またの名を木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)という。 創立年代は不詳なれど地方の古社にして延喜の制小社に列し、延喜式神名帳(905)に当社の社名、鎮座地が所載されている。 社殿にいう、欽明天皇即位3年3月(542)春日部乙身勅命により幣物を捧げた後、慶雲の起こるによりて、この地に遷し、敏達天皇の皇子社頭に賽す。 或いは口伝えに、日ヶ奥にありしを、洪水によりこの地に来ると云う。 明応元年(1492)8月社殿を再建せしも、元文4年(1739)7月八朔祭の松明の火で炎上。寛保2年(1742)9月造営して同月19日遷宮する。現在の本殿は当時のものである。 当時は、公郷、武家の崇敬が篤く、岩倉具視は自筆の神号額を納め、領主は高5斗の御供田を除地とする。 寛政4年(1792)当村東山より天満神社を合祀する。 明治6年(1873)10月村社に列し、昭和3年11月県社に昇格する。 兵庫県神社庁 |
阿陀岡神社 創立年代は不詳なれども延喜式内の神社にして、延喜式神名帳(平安時代)に当社の社名、鎮座地が所載されております。 明応元年(1492年)8月に再建され、元文4年(1739年)7月八朔祭も松明の火で炎上、寛保2年(1742年)9月に再建し現在に至る。 伝説には、欽明天皇3年3月即位3年(583年))春日部乙身勅命により幣物を奉ったと言れ、1400年以上も昔から鎮座されていた古社であります。 公卿や武家の崇敬が厚く、明治維新の元勲、岩倉具視は自筆の神号を奉納している。 社頭石碑 |