社が鎮座する社地は、かつての式内、奴々伎神社が鎮座していた社地である。 昭和15年12月18日奴々伎神社から伊尼神社に改称したがその理由は不詳。 |
由緒 御由緒 當神社は人皇第29代欽明天皇の朝庚申の年の創祀と傳へられ丹波地方有名なる古社なり。丹波平原開拓に當り國土経営の守護神として天孫彦火瓊瓊杵尊(紀)を齋き祀り穀霊大市比賣命を配祀(神名帳考證七)せられたり。古へより伊知宮と稱へ奉る。延喜の制、國幣社に列せられ(延喜式)祈年、月次、新嘗の祭儀には國幣に預り國家事ある時臨時使を差遣はされて奉告あり。されば貞觀、寛平、天慶、永保以後庚子、辛酉の年には神階昇叙の御事あり。古来領主並に武将の尊崇厚く明應3年(1494年)當地赤井城主赤井伊賀守忠家公本社を造営、爾後累代崇敬深く弘治元年乙卯年(1555年)11月18日其孫赤井五郎兵衛太夫家清公亦本社を再建甲冑一領を奉納し武運長久を祈れり。延寳6年(1678年)小出伊勢守御検地御改めの節當神社神宮寺遠林寺五十六間に五十間内畑貳反貳拾歩領主検地帳に除地と指定せられる。延寳、天和以後當地旗本安藤、須田、水野三武将の崇敬殊に厚く當社が祈雨の明神として又武運長久の守護神として是等三氏の崇拝濃かりしことは其奉納せし金燈篭及額面の今に存せるを見ても明らかなり。當社は沼貫庄の總社として又西丹波一帯の地方民の尊崇仰慕厚く例祭の如き「立會祭禮」と稱して西丹波地方より神輿又は段尻(屋臺)を奉じて當社に集まり渡御に加列扈従し壮觀を呈し地方稀なる祭禮として遠近より参拝するもの多く總社として崇敬し来れり。現今にては其祭事廃れたるも尚例祭の渡御には各村より神幣を奉じて其行列に列り今に其古風を遺存せり。明治六年村社に加列、明治45年3月27日神饌幣帛供進神社に指定せられ昭和13年7月13日郷社に加列、同16年10月15日舊社名奴々伎神社を伊尼神社に復古改稱、同17年6月10日縣社に加列せらる。舊拝殿新築は明治42年5月16日にして舊渡殿は同43年6月25日竣工せり。現在の拝殿並に社務所は昭和16年10月11日の竣工にかかり現在の神饌所は舊拝殿を同時に移築せしものなり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
奴奴伎神社 伊知宮奴奴伎神社永続講記念碑銘 沼貫北端老杉崔嵬需是當社按史早己列延喜式内爲沼貫庄内総社中外信佛武將殊崇敬之現在本殿實係當村後谷城主赤井家清建立矣其他充旱乃祈雨疾篤示乞救示驗如響応物璽來凡百運賦常先祷之於當社加之春花鏡芳春秋葉争妍節数千氏子集於広前嬉戯悠正是文一曰樂圏雖然星霜亘久歟境内荒廃爲至読神威必焉則憂之千未然新郷谷村稻畑佐野油利朝坂辺田小野福田稻繼本郷横田母坪十三部落氏子總代相諮以明治三十三季五月開相談會□己同三十五季一月組織當講爲一口金十円得百五十四口一千五百四十圓更利賦於各氏子募寄付得金三百之利計金二阡圓爲此墓金是實可謂氏子信仰之結晶矣以朞使鞣選憾當社保存噫燈系旧十三部落氏子美擧抑示那家敬神一慶東乃雕其大梗輿関係當事者芳名以傳系朽立後葉者也 干時昭和己巳載初夏 弘前高等學校教授 正六位勲六等 三浦圭三撰 社頭石碑 |
伊尼神社 人皇第29代欽明天皇御宇の創祀と傳へられる。丹波平原開拓に當り、国土経営の守護神として天孫彦火瓊瓊杵尊(紀)を祀り、穀霊大市比売命を配祀。伊知宮と稱へ奉る。 延喜の制、国幣社に列せられ、祈年、月次、新嘗の祭儀には国幣に預り、国家事ある時臨時使を差遣はされて奉告あり。 領主並に武将の尊崇厚く、明應3年赤井城主赤井伊賀守忠家公本社を造営。弘治元年、其孫赤井五郎兵衛太夫家清公本社を再建。甲冑一領を奉納し、武運長久を祈る。 延寳、天和以後、當地旗本安藤、須田、水野三武将の崇敬殊に厚く、當社が祈雨の明神として又武運長久の守護神として是等三氏の崇拝濃かりしことは其奉納せし金燈篭及額面の今に存せるを見ても明らかなり。 明治6年(1873)、村社に列せられる。 同13年(1880)、郷社に昇格。 同16年(1883)、伊尼神社に復古改稱。 同17年(1884)、縣社に昇格。 同42年(1909)、拝殿新築。 現在の拝殿並に社務所は、昭和16年(1941)竣工。 現在の神饌所は、拝殿を同時に移築せしもの。 兵庫県神社庁 |