八幡神社
はちまんじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】岩部神社 丹波国 氷上郡鎮座

   【現社名】八幡神社
   【住所】兵庫県丹波市柏原町柏原3625
       北緯35度7分51秒,東経135度4分46秒
   【祭神】譽田別命 息長足姫命 多紀理比賣命 多紀都比賣命 市岐嶋比賣命 大雀命
   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 柏原八幡神社
   【社殿】本殿
       拝殿・三重塔・社務所

   【境内社】厄除神社・八坂神社・住吉神社・春日神社・香良神社・西宮神社
        祖霊社・山神社・若宮社・祓殿・猿田彦神社・厳島神社・淡島神社・五社稲荷神社・聖神社


創建は万寿元年(1024)、後一条天皇の勅願により石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まりとされる。
当社を式内岩部神社に比定する説がある。


由緒

社伝によれば舒明天皇の御代(629年〜41年)出雲の連なる人が入船山上に素盞嗚尊の御神霊を鎮祭(塔の段、八坂神社)したのが、当山の霊城開発の始めである。
後一條天皇の治安年間(1020年頃)、柏原は安田園と呼ばれて既に山城国石清水八幡宮の社領地になって居たが、萬寿元年(1024年)当山に霊泉湧出の不思議あり、その旨を帝都に奏す、天皇は奇瑞となし奉幣使を遣はし、社殿塔堂を造営させられ、別当寺のほか大安寺(東奥に古跡あり)清水寺(南多田清水山の中腹)等五十四坊の社家末寺等悉く整い、茲に始めて石清水八幡宮の御分霊を勧請し、柏原別宮として広く上下の尊崇を受け、爾来、国家の鎮護、柏原の総鎮守として神威を展べ今日に及んで居る。
南北朝時代の貞和元年(1345)萩野安藝守が足利氏に抗して此の地に戦い、その兵火に創建当時の社殿は烏有に帰し、その後再建された社殿は、天正7年(1579)明智光秀の丹波攻略に際し再び焼失の災いに遭った。
(当山を焼き陣を構えた光秀は、神怒による天変地異を恐れて旬日を出ですして金山に陣を移したという)
天正10年(1582)羽柴秀吉公の武将堀尾毛介吉晴は軍監として黒井城に在り、一夜当社の霊威を感じ、その由を秀吉公に聞達、公は大いに悦び、毛介を普請奉行に任じて社殿再建の工を進め、同13年(1585)竣工したのが現存する社殿である。(社殿はその後屡々改修が加えられたが、その経過は別項「社殿の構造形式」を参照されたし)此の時萬寿の古例に従い祭儀を興し、同14年秀吉公は矢嶋久兵衛、中嶋甚吾を遣わして社田を寄進し、翌15年加藤清左衛門をして再び社田を寄進し、同19年渡辺孫左衛門に命じて境内竹木伐採法度の折紙を納め、同時に御燈明田を寄進せしめ、その他田地を寄進する者、秀次、堀尾毛介以下武門の士相つぎ、合せて五十二石九斗五升あり、文禄4年の検地の時総て除地となし、延宝7年の検地の時も亦除地とした。
藩政時代に至り慶長3年(1598)伊勢安濃津城主織田信包の柏原移封後は、織田家の武運長久祈願所となし、崇敬殊に深く、明治に至る迄毎年藩主の奉賽が行われた。
明治元年太政官布告による神仏判然令に依る神仏分離の際殿宇は社有に帰したが、社僧は先師追遠の為め官に請うて元東光院の堂宇を以って乗宝寺と改称した。
明治6年天下大小の社格を定むるや郷社に列格、同33年県社に昇格す(旧社格)
昭和21年宗教法人法の制定さるるに及び伊勢神宮を本宗とする神社本庁に所属す。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




柏原八幡神社

社伝によると、舒明天皇の御代(629〜641)に出雲連が入船山(当宮の鎮座する山)に素戔鳴尊(すさのおのみこと)を奉祀したのが当宮の創始と伝えられています。
その後、萬寿元年(1024)に入船山周辺の3箇所から霊泉の湧出を奇瑞とし、後一条天皇の勅意により国家鎮護の社として京都の石清水八幡宮より御分霊を勧請し、丹波国「柏原別宮」として創建されました。
境内には兵庫県指定重要文化財に指定されている三重塔と釣鐘が現存し、神仏習合当時の景観を今日に伝える全国でも極めて珍しい神社です。
厄除けの神威が高く、毎年2月17日、18日に斎行する厄除大祭は「丹波柏原の厄神さん」と親しまれ全国各地より多くの参拝者で賑わい、17日深夜に執り行われる「青山祭壇の儀」は日本最古の厄除神事で、往古の道饗祭(みちあえのまつり)、疫神祭(えきじんさい)の遺風を今に伝えています。
・社殿
現在の社殿は天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉によって再々建されたもので、三間社流造りの本殿に入母屋造の拝殿を連接した複合社殿です。
この建築様式は「権現造」の先駆けとなる建築様式として貴重で、大正2年に特別保護建造物に指定、現在は国の重要文化財に指定されています。
・三重塔
現在の三重塔は文化10年(1813)〜文化12年(1815)にかけて建立されたもので、全国で神社に塔が現存する18例の1つに数えられる貴重な建築です。
兵庫県の指定重要文化財に指定され、古来より柏原のシンボルとして親しまれています。

公式HP



柏原八幡神社

舒明天皇の御代(629〜641)、出雲の連なる人が入船し、山上に素盞嗚尊の御神霊を鎮祭したのが創始である。
 万寿元年(1024)に京都石清水八幡宮の別宮として創建された神社で、創建当時の建物は南北朝の貞和元年の戦乱(1345)で焼失し、その後再建された社殿も天正7年(1579)明智光秀の丹波攻めの時に炎上。
 現在の社殿は天正13年(1585)に羽柴秀吉によって造営されたもので、三間社(ミツマシャ)流れ造りの本殿と、入母屋造(イリモヤヅクリ)の拝殿とが接続した複合社殿を形作っており、国の重要文化財に指定されている。
 明治6年(1873)郷社に列せられる。同33年(1900)県社に昇格す。
 本殿背後には、神仏習合の名残である釣鐘と三重塔がある。
 鐘楼には、康応元年(1389)と元文12年(1543)の二つの年号が刻まれた銅鐘があり、秀吉が大砲に鋳(イ)なおすために集めたものの一つで、兵庫県指定の文化財
 三重塔
 応仁2年(1469)建立され、戦乱で焼失。その後元和5年(1619)再び焼失。文化13年(1816)再建。兵庫県指定の文化財。

兵庫県神社庁



八幡神社三重塔

県指定文化財 八幡神社三重塔
指定年月日 平成元年3月31日
所有者・菅理者 八幡神社
八幡神社は、萬寿元年(1024)石清水八幡宮の丹波別宮、柏原八幡宮として創建された神社である。三重塔は、文化10年(1813)から同12年にかけて建立された。
心柱に「従文化癸酉霜月至同十二乙亥正月」と墨書があり建立の経過は社蔵の日記(文化9年より12年)によって詳しくわかる。各重柱間を三間とする三重塔で、初重内部は四天柱を立て全体に格天井を張り、来迎壁前に須弥壇を据える。心柱は八角で初重丸桁拮木にのせた牛梁の上に立つ。江戸時代後期建立の塔婆で神仏混淆当時の名残りを止めた数少ない歴史的建造物である。
平成元年10月
兵庫県教育委員会

社頭掲示板



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