高座神社
たかくらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】高座神社 丹波国 氷上郡鎮座

   【現社名】高座神社
   【住所】兵庫県丹波市青垣町東芦田2283-1
       北緯35度14分6秒、東経135度2分8秒
   【祭神】仲哀天皇
       (配祀)大日靈尊 天児屋根命 経津主命 武甕槌命

   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】仲哀天皇穴門行幸の前年創立
       慶雲3年(706)造営
       弘仁4年(813)4月嵯峨天皇勅額を下賜
       明治6年10月村社
       大正4年11月29日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高倉大明神」「高座大明神宮」と称していた
   【公式HP】 高座神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・神樂殿・手水舎

   【境内社】芳魂神社

佐治川の左岸、高座山南麓の舌状台地、佐治川の氾濫原が、前面に一望できる位置に鎮座する。


由緒

御由緒
傳へいふ仲哀天皇穴門行幸の前年民の疾苦を憐み武内大臣を隨へ當國巡狩の際當地に滞留せられ當社を創立せられ高座神社と稱し給ふと文武天皇慶雲3年春夏の間天大いに旱し村民社前に雨を祈る事數日忽ち巨蟻群出し俯仰して誘導の姿容を示せしかば村民其行く所を追ふに凡そ八町餘にして蟻遂に見えず里民之れ神霊なりとして其歩みし跡を掘りて清水を得穀物の豊熟を得たり之より世俗蟻の宮と仰ぐ又村民國の幸福を興さんため當社に参篭せし時神夢に告げて曰く汝世利を謀らば須らく養蠶の權輿なり弘仁4年嵯峨天皇勅額を下賜せらると傳ふるも弘化3年別當觀蓮發狂の際焼失す江戸時代上下の崇敬篤く皇室に於かせられては明和9年12月1日仙洞御所より翠簾一連を寄進あらせられ武門にありては慶長6年8月當郡由良の城主別所吉治神燈田を寄進し次いで柏原藩織田出雲守自筆の扁額一面を、安永6年8月豫州宇和郡吉田城主伊達村賢青銅製重量壹貫七百目の金燈篭一箇を何れも奉納せり明治6年10月村社に列せらる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



高座神社

当社は人皇14代、仲哀天皇(いまより約1800年程前)にお祀りになられた御社で、天皇が中国地方の穴門へ行幸の前年にこの地方の村民が流行病で難渋しているのをご心配になられ武内宿禰をお供としてお見舞いになり、この社に参拝され「病気平癒」を祈願され、お宮の名前を高座(たかくら)と名付けられました古社であります。以前は高座谷にありましたが、寛文10年(西暦1670年)にこの地へ遷座されました。延喜年中(西暦901年〜923年)当郡式内社に列せられ、弘仁4年(西暦813年)嵯峨天皇より勅額を賜りました。しかし、古記・宝剣・勅額等は弘化3年(西暦1846年)別当観蓮失火のため惜しくも焼失してしまいました。現在の本殿は間口2間半・奥行き1間余り、四方に廻縁がある大宮ツマ造りといわれております。
また当神社は別名を『蟻の宮』と称えています。今を去ること夏おおいに旱魃の年、村民多数高座神社に参拝し七昼夜、雨乞いの祈願を致しました。七日目の夕方、村人の1人が大きな蟻が御社殿から這い出て、列を作っているのをみつけました。蟻の列をたどっていくと蟻が窪みの所で消えていなくなっていました。蟻が消えた窪みを掘り返してみると、清水がコンコンと湧き出てきました。村民は驚き感激して、溝を通し田に水をたたえ枯れかけた稲は青く蘇りました。この年、芦田の谷では豊作の年を迎えることが出来たのです。今日でも水路に水神様の祠を作り、お祭りを続けています。そして蟻は一度にたくさんの子を産み、子孫を繁栄していくと云うところから子宝に恵まれる『子授け神社』として古来より伝えられ、現在においても多くの人々が遠方よりご参拝されています。
又、境内社の馬鳴神社は『蚕の宮』といわれ氷上郡内の豊かな生活を求め、当社に参拝し「養蚕を始めよ。守護する神は保食神なり」と夢のお告げにて村民は驚き、広く養蚕を営むようになりました。ここに青垣の地方は蚕を飼うようになり、今日では五穀豊穣、諸業繁栄、延命長寿、無病息災の社として参拝されております。
そしてそれらの証が『盃状穴』として残っています。盃状穴とは先人の人達が悩み、苦しい時神社に参拝し祈りを捧げさらに「願」を掛けて祈りました。手水鉢や灯篭の台石や階段の踏石等に「ノミ」で穴をあけ、祈ったと言われており、又、その穴に油を注ぎ祈ったとも言われております。石に盃状の穴が今日まで残り先人の深く篤い祈りの証であり、盃状穴のある御社として御参拝下さい。

公式HP



高座神社

高座神社由緒略記 御祭神 大日霊尊 おおひるめのむち (天照皇大神・伊勢内宮鎮座にて国家安泰) 天児屋根命 あめのこやねのみこと(春日大神・国土経営・商業繁栄・家内安全) 経津主命 ふつぬしのみこと (香取大神・外交の神・災難除け) 武甕槌命 たけみかずちのみこと (鹿嶋大神・勝運・戦勝・交通安全) 仲哀天皇 ちゆうあいてんのう (日本国の開国安定・慈愛の神) 御由緒 当社は人皇14代仲哀天皇(今より1810年程前)がお祭りになった御社で武内宿祢をお供として、この社に参拝され「病気平癒」を祈願され、お宮の名前を高座(たかくら)と名付けられました古社と言われております。以前は高座谷にあり寛文年中(1661−73)にこの地へ遷座されました。延喜年中(901−23)当郡式内社第一に列せられ弘仁4年(813)嵯峨天皇より勅額を賜わりました、しかし、古記・宝剣・勅額等は弘化3年(1846)別当観蓮失火のため惜しくも焼失してしまいました。
現在の本殿は間口二間半・奥行一間半余り、四方に廻縁がある大宮ツマ造りといわれております。
又別名を蟻の宮と称えています、今を去ること夏おおいに旱魃の年、村民高座神社に参拝し七昼夜爾乞いの祈願を致しました。
七日の夕、村人の一人が大きな蟻がご社殿から這い出て列を作っているのをみつけ蟻の列をたどって行くと蟻が窪みの所で消えてなくなっていました。
窪みを堀り返してみると、清水がコンコンと湧き出てきました。村人は驚き惑激して、溝を通し田に水をたたえ枯れかかった稲は青く蘇りました。この年芦田の谷では方策の年を迎えることが出きたのです。今日でも水路に水神様の祠を作りお祭を続けています。又境内社の馬鳴神社は蚕の宮といわれ氷上郡内の豊かな生活を求め当社に参拝し、「養蚕を始めよ、守護する神は保食神なり」と夢のお吉げにて村民は驚き、広く養蚕を営むようになりました。ここに青垣の地方は蚕を飼うようになり、近隣の人々も多く参拝されるようになりました。
境内社
兼朝神社(かねともじんじゃ)祭神 武内宿祢(仲哀天皇に仕へ経済・諸業繁栄の神)
馬鳴神社(ばなりじんじゃ)祭神 保食神うけもちの神(蚕の神・食物・五穀・稲・生産の神)
若宮神社 祭神 応神天皇〔仲哀天皇の子で厄除け・開運の神)
芳魂神社 祭神 日清・日露・太平洋戦争に東芦田・西芦田・田井縄・口塩久・粟住野地区の英霊)
尚、昭和58年裏山の崖くずれの工事により、八世紀頃より使用された土器(須恵器)が出土してこの裏山は大古の時代の神山であったことが証明されました。

社頭掲示板



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