二村神社
ふたむらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】二村神社 丹波国 多紀郡鎮座

   【現社名】二村神社
   【住所】兵庫県篠山市見内1-3
       北緯35度1分34秒、東経135度9分24秒
   【祭神】伊邪那岐命 伊邪那美命
   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平勝宝2年(750)小野道風之筆の額を賜う
       文明14年(1482)神事の節騒動
       元亀元年(1570)5月鳥居造営
       天正6年(1578)兵火焼失
       延宝6年(1678)神殿復興
       明治5年造営
       明治6年10月村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】社名の変更はない
   【社殿】本殿春日造檜皮葺
       拝殿・社務所

   【境内社】

『神祗志料附考』によれば見内村に死人が出た時は住山村(見内から山を隔てた西の谷)の山谷に葬つた。そこには堂屋敷と呼ぶ古跡がある。又鳥獣と雖も死ねば当社より水上に棄てなかつたという。更に正保(1644−48)以後は波賀野村へ葬送することに改めたが神前の道を通ることは許されなかつたとある。


二村神社

(略)当社は酒井、大山、宮田、小野原四庄の氏神であつたが、文明14年(1482)の祭禮当日酒井庄の座席の争いが遂に和解に至らず、このことを知つて氏子一同は神社の宝物を持出し自村へ持帰つた。即ち味間へは神輿を、眞南條へは御神体を、又板井へは獅子頭その他を、栗栖へは鉾幣を、遲れ馴せの矢代新などは最早何もなく椀の箱だけを持帰つたという。そして何れの村でも自ら二村神社を祭祀して以來自村で祭禮を行うことにした。例の腕箱を持歸つた矢代新村では椀箱祭として今でも祭祀を行つている(略)

多紀郷土史考



宮座争い

 室町幕府の支配が揺らぎ始めて、下克上の風潮が全国に広がり、丹波の地がそのうねりに呑み込まれようとしていたころのことです。  丹南町古市地区の西方の神内村(現在の見内)に、式内社「二尊神社」(現二村神社)がまつられていました。この神社の氏子は、今田町の小野原から丹南町の古市、真南条、味間、大山、西紀町の南河内、北河内と広い範囲にまたがっていました。
 祭礼ともなると遠くの村々からも参拝者が集まり、特に九月九日(重陽の節句)に執り行われる秋の例祭は非常に盛大なものでした。祭りの準備は、各村が順番で持ち回っていましたが、大変な苦労が伴うものであったのか、遠くの村が当番にあたった時はいつも不平不満の声が出ていました。
 祭りの当日は各村の名主が神前に列して執り行うのですが、神内の名主は神社鎮座地の名主ということで一番上座に列し、次に各村の名主が座するのが慣いとなっていました。名主は百姓であるとともに、何人かの下人をもつ武士でした。彼らは神社への年貢や人足集めなどを受けもっていたのですが、大所帯の村の名主ほど自分たちは神内より多くの負担をしているのに、上座に座ることができないと不満に思っていました。 世の中が平穏なときは、直会(神事の後の酒宴)の席において、
「どうして神内の名主がいつも上座に着いているのだ。俺たちだって・・・・。」
と不平事を言う程度で済んでしまいましたが、世の中が騒々しくなってくると、広い地域を治め多くの戸数を支配する名主たちの間には、自分が一番上座についてもいいはずだとの思いがだんだん強くなってきました。
文明14(1482)年の秋の例祭には、そういった日頃の思いが頂点に達し、直会の半ば、濁り酒に心地よく酔いしれた頃、またもや席順について口論が始まりました。
(御神像争い)
当時、真南条村の名主は近郷にも名の知れわたる剛の者であったので、口論の揚げ句、「それでは力づくで」と御神殿の扉を押し開き、御神像一体(伊弉冉尊)を持ち出しました。
それを見た他村の名主達も、遅れてはならじと御神殿へと殺到していきました。
神内の人達は防戦に努めましたが、なにしろ急なことであり、人数も少なく残り一体の御神像(伊弉諾尊)を守護するのが精一杯でした。
 真南条の名主は、御神像をだき抱えて波賀野村を東のほうへとひた走りましたが、村はずれまできて神内の追手に追いつかれてしまいました。
 そこで、近くにあった大きな棒を拾い上げ、棒を振り回して追手達と一戦を交えることになりました。なにせ強者であり、追手の人数もあまり多くなかったので、何とか追手を追い返すことができました。(この場所を現在も「棒振りの地」と呼んでいます。)そして、当野の船瀬のあたりまで来ましたが、ここはその地名が示すように当時は沼地となっていましたので、いったん古森へ出て、当野の村へと逃げることにしました。
 当野の人達も、常日頃神内の人達に反感を抱いていたので、村人達が追手の行く手をさえぎって、逃げる手助けをしてくれました。名主は、これでやっと真南条村にたどり着けたそうです。
 さて、真南条村では、村の主だった者が集められ、今後の対策について協議がなされました。そして、この里に流れていた清流のみなもとの岩屋に、御神像を安置することにしました。 当然、神内の方でも黙っているわけがありません。何回にもわたって御神像をを取り返しに来ました。そこで、真南条村では谷川の近くの人達に、御神像をお守りする役が当てられました。人々は見張り役の当番を作り、昼夜とも御神像のお守りを交代ですることになりました。(この由来からこの谷川を宮ノ谷川といい、御神像を隠してしまったところを「バンヤノマワリ」と呼んでいます。また、助けてくれた当野の人達に感謝する意味で真南条の人々は、食事のときには当野の人達に、膳を供えていたということです。)
 この御神像争いの時、味間が神輿、西吹が馬具、矢代新田が椀箱を持ち帰り、今ではそれらを御神体として、それぞれの神社、集落で祭事が行われています。
(有名だった喧嘩祭り)
 それから、百年の歳月が流れ去りました。
 波多野秀治が高城山に城を構え、この地方を治めるようになって、比較的平穏な日々が続いていました。真南条の村でも、暮らしが落ち着くと、「いつまでも山の中に御神体をまつっていてはもったいない。この際お社を造ってはどうか。」という話がでるようになりました。
 村の中で幾度となく協議がなされた結果、「竜蔵寺の末寺の少し上の方が、地形的にも一番よいのでは。」と、お社の建築の決定がなされました。
 そして村人総出で力を合わせ、山裾を切り開いて平地とし、広い参道を造るとともに、先ず石の鳥居が元亀元(1570)年に奉納されました。また、三年後の元亀4(1573)年には立派な御神殿に御神像を遷すにあたって村人達は宮ノ谷川二つの支流が合流する所(塩掛)で御神像を洗い清めました。また彼らも同じ流れで心身を清めて、御神像を安置しました。(その後、この神像を清めた所を塩掛と呼ぶようになり、今も赤ん坊の初詣には、塩掛の水で赤ちゃんを清めてから、氏神さんへお参りする習わしになっています。また、いつの時代に再建されたのかは不明ですが、当神社には伊弉諾尊、伊弉冉尊の二柱の大神達が祀られています。)
 この真南条村の秋祭りは、「真南条の喧嘩祭り」として有名でした。
 四人の子供を乗せた太鼓神輿が互いにぶつかり合う、それは勇壮なものでしたが、今では子供達の数が少なくなり、かき手も少なくなって喧嘩もなくなりました。
 また、以降は奉納されていた引山の姿を知る人も年々減ってきています。

篠山市 民話と伝説 たんなん



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