川内多々奴比神社
かわうちたたぬひじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】川内多々奴比神社2座 丹波国 多紀郡鎮座

   【現社名】川内多々奴比神社
   【住所】兵庫県篠山市下板井74
       北緯35度5分54秒、東経135度10分7秒
   【祭神】天照皇大御神 建速素盞嗚命
   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】崇神天皇の御宇丹波道主命が野陣を張り天神地祇に祈請
       天智天皇2年(663)9月勅命を以つて祭事
       白鳳元年9月国司より造営
       正暦元年(990)3月源頼光が太刀一口を奉献
       元弘年中(1312−34)兵火で霊代である神玉神劔を紛失
       正平13年(1358)8月再建
       万治元年(1658)焼失
       明治6年村社
       大正9年5月郷社

   【関係氏族】楯縫氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は楯縫氏の祖神を祀る
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       拝殿・社務所

   【境内社】愛宕神社

崇神天皇の御宇四道將軍丹波道主命が丹波に派遣された時ここに野陣を張り、賊徒平定を天神地祇に祈願した。
神楯を奉仕する斎部の楯縫氏が祖神を祀ったのが起源と思われる。


由緒

御由緒
崇神天皇の御宇四道将軍丹波道主命丹波に遺されし時蒙昧の徒皇軍に従はず一勝一敗容易に平定すべくもあらず仍りて此地に野陣を張られ天神地祇に祈請せられしに東山の麓に小川ありて其の小川の淵となる所より光輝赫灼として陣中に照り通り且震動して止まざること數日命大いに訝り怪みて是れ神祇の御守護の顯に現れ給ふ事ならんと思召し彼の水邊に至り給へば白髪の老翁身には白衣を着け左手に白玉を右手に剱を捧げながら水上に漂へり命の曰く是れ人に非ず神ならんと敬ひつつ近寄り給へば彼の老翁左右の玉剱を命に授け白玉は是れなん天神國神として齋き奉れ剱は賊徒を亡す霊剱なりと誨へ給ひて御姿は見えず光輝も震動も次第に止みぬ命大いに喜び懇に天神國神を祭りて其の恩頼に報ひ奉り給へり夫より賊徒悉く平ぎて國中平安となれり爰に於て命この由を朝廷に言上して勅命を受け宮地を相して白玉を天照皇大神神霊剱を建速素盞嗚命と稱し奉りて此地に勸請せられたり斯くて彼の玉剱は川の内に漂ひし神の分霊なるにより社の名を川内多々奴比神社と稱して敬祭し給へり是れ即ち當社鎮座の起因なり因って郷民社地の名を川内原と呼び光輝水上より東南の山々迄輝き渡りたればとて東の山を御光嶺南の山を南光山と謂ひ氏子を川内の郷と謂ふ
天智天皇2年9月9日勅命を以て祭事を行はる蓋し祭禮の始なり天武天皇白鳳元年9月9日國司より造営せられ醍醐天皇延喜の制二座とも式内社に列せられ神名帳に丹波國多紀郡川内多々奴比神社二座とあるに相當し同帳四時祭の部に國司祈年神云々又座別に絲二両綿二両右國司の長官以下准列散齋三日致齋一日共に會祭し其幣皆用正税とあるは昔時祈年の國幣に預り國司親しく祭事を行はれたることを證すべし正暦元年3月摂津守源頼光丹波賊徒征討の際太刀一口を奉獻せられたることは由緒により知ることを得、元弘年中兵燹に罹り霊代なる神玉神剱を紛失したることは頗る遺憾とする所なり正平13年8月再建新に神躰を造りて勸請せられ笈西勘太夫供奉明山權太夫出向へたるにより現在板井村に笈西及明山姓のもの多し萬治元年社殿及び古文書寶物等全部焼失に及び僅に源頼光奉獻の太刀一口出でたり同3年4月社殿を再建し明治6年10月村社に列し大正9年5月郷社に昇格す

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



川内多々奴比神社

崇神天皇の御代四道将軍丹波道主命、この地に野陣を張り賊徒征伐に苦慮されたとき、白髪の翁が現れ玉剣を授け、その加護により平定することができたので朝廷に言上し、勅命によりここに宮地を営んだのが当社の縁起であります。
名称の川内は当地を川内郷といい、神楯を奉仕する斎部の楯縫氏が祖神を祀ったので川内多多奴比神社といいます。
天智天皇二年九月九日勅命により祭祀を執り行ったのが祭礼の初めで、天武天皇白鳳元年9月9日国司により造営され、氏子中二十社の総社で平生は一宮と呼んでいる。

社頭掲示板



川内多々奴比神社

この神社は古社で昔は楯縫族が祖神を祭祀したもので川内楯縫神社であつた。即ち元來の祭神は彦狭知命であつたと思う。所が楯縫族が退散して祭事が充分出來なくなつてきたのであつた。楯縫氏とは主に幕を作る工人のグループであるから一時大変繁昌して飛ぶ鳥を落すような勢力であつたが、根が工人であるから一朝幕が不用にでもなれば一たまりもなく零落の道を辿るものである。楯縫族の零落後は地元民によりこの神社の祭祀や経営をすることとなり楯縫社では何だか他人の物の手傳で自分達の神様でないような感じを抱いた結果神號を変更し『川内多々奴比神社』となつたのである。『タテヌイ』と『タタヌイ』ではあまり変つたように聞えない。それは思い切つた改名は出來ぬものであるからだ

多紀郷土史考



川内多々奴比神社

崇神天皇の御宇、四道将軍丹波道主命丹波に遺されし時、蒙昧の徒皇軍に従はず一勝一敗容易に平定すべくもあらず。
 仍りて此地に野陣を張られ、天神地祇に祈請せられしに、東山の麓に小川ありて、其の小川の淵となる所より光輝赫灼として陣中に照り通り、且震動して止まざること數日。
 命大いに訝り怪みて、是れ神祇の御守護の顯に現れ給ふ事ならんと思召し。
彼の水邊に至り給へば、白髪の老翁身には白衣を着け左手に白玉を右手に剱を捧げながら水上に漂へり。
 命の曰く是れ人に非ず神ならんと敬ひつつ、近寄り給へば、彼の老翁左右の玉剱を命に授け、白玉は是れなん天神国神として齋き奉れ。剱は賊徒を亡す霊剱なりと誨へ給ひて御姿は見えず。
 光輝も震動も次第に止みぬ。
 命大いに喜び、懇に天神国神を祭りて、其の恩頼に報ひ奉り給へり。
 夫より賊徒悉く平ぎて、国中平安となれり。
 爰に於て命この由を朝廷に言上して、勅命を受け宮地を相して、白玉を天照皇大神、神霊剱を建速素盞嗚命と稱し奉りて、此地に勸請せられたり。

兵庫県神社庁



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