櫛石窓神社
くしいわまどじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】櫛石窓神社2座(並名神大) 丹波国 多紀郡鎮座

   【現社名】櫛石窓神社
   【住所】兵庫県篠山市福井1170
       北緯35度6分44秒、東経135度19分46秒
   【祭神】櫛石窓命 豊石窓命 大宮比売命
   【例祭】4月29日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】大同元年(806)神封五戸
       元慶年中(871−85)陽成天皇第五皇子の行啓
       永禄10年(1567)再建
       天正年間明智光秀が波多野秀治を征討した際焼失
       明治6年10月村社
       明治37年3月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】神代よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】社殿の後方の宮山は神南備
   【祭祀】
   【社殿】本殿神明造萱葺
       幣殿・拝殿・神饌所・社務所・参集殿

   【境内社】火雷神社

境内に霊巌(ミタマイハ)あり高さ数丈魏然として秀づ又神井あり福井と云い御供の水に用いる。
社殿後方には「宮山」と呼ばれる高さ約30メートルの丘がある。宮山の頂上付近には「霊岩(みたまいわ)」という磐座が残り、古代祭祀の名残を現代に伝えている。
宮中の神祇官西院において「御門巫祭神八座」として、櫛石窓神・豊石窓神が四面の門に各一座ずつ祀られている。


由緒

御由緒
櫛石窓神社は千早振る神代の昔よりいと尊き御神にわたらせ給ふになん謹んで按ずるに古事記の葦原中國の巻に登由宇気神此者坐外宮之度相神也次天石戸別神亦名謂櫛石窓神亦名謂豊石窓神此神者御門之神也云々と即ち皇祖天照皇大御神の此豊葦原の國を経営し給ひし御代の元勲とも申し奉るべく誠に御由緒正しき大神にてありけり又古語拾遺なる天の石屋の段は更に詳かに其事の由を載せて曰く天手力雄神をして其扉を引啓き新殿に遷座せしまたまふ則ち天兒屋命太玉命日の御綱を以て其殿に懸け廻らし大宮賣命をして御前に待せしめ豊磐間戸命櫛磐間戸命二神をして殿門を守衛せしむ是れ並に太玉命の子なり(以上譯文)云々と其功徳の彰々乎として明かなり雄略天皇の朝に豊受太神丹後國眞名井原より伊勢國度相に御遷座ましませしは已に國史に載する所にして其所謂る丹後とは則ち古の丹波にして櫛石窓命の神の初より此地に鎮座ましませしこと疑ふべくもあらず又延喜式神名帳に丹後國多紀郡櫛石窓神社二座とあり又神祇官西ノ院に二座、御門巫祭神、櫛石窓神、豊石窓神是なりと其他國史に記録せらるるもの少なからず乃ち四時祭式に5月12月御門祭とあるは此神の祭なりと又延喜式神名式に宮中神三十六座神祇官西ノ院二坐御巫等祭神二十六座並大、月並、新嘗とあるも亦則ち此神にして古へより宮中にて御崇敬遊ばされて御門の神と申し奉るになん居民は家々戸々尊崇怠らざるが當地方には昔時より未だ會て疫疾の流行せしことあらず全く御神徳冥護の致す所と申傳へり洵に霊瑞の至りなりと申奉るになむ。
鎮座後の沿革
當神社は平城天皇大同元年勅符により本國を定め五戸を封ぜらる陽成天皇元慶年中第五の皇子御幸ありたり其頃京師の縉紳屡参篭して御禊の神事を行はせられ獻詠も多かりき現今神社のある所は則ち古の神田庄大芋郷にしてもと四十八箇村の總社たり故に大宮と稱す延喜式神名帳にも亦名神大と記せられたる所以なり境域は大芋川の南岸に位し一道の清流相廻り水を隔てて城山と對し森脇山の諸峰東南に聳立せり境内に霊厳あり高さ數丈巍然として秀づ又神井あり福井と云ひ御供の水に用ふもと社領富饒祠殿壯麗なりしが應仁以降細川山名両家の戰亂の爲め屡其災を被りたり天正中明智光秀の波多野秀治を征討するや全莊其焚燒する所と爲りさしも輪換を極めたりし堂宇と累代の寶什とを併せて烏有に歸せり次で社領没収せられ僅に供田二反の存するあるのみ然れども境域尚九町歩(寶暦2年の調査)ありしと云ふ元来神田庄と稱するは此神社の御供たりしによる故を以て往昔より霊淑の境として不淨物を埋葬することを厳禁し必ず他村に持運びたり之を稱して大芋の持越しと云ふ享保十年市野々村民同村内に墳墓を設くるに至り爲に物議を生じ遂に藩主に訴へ前例に復し維新迄厳禁せられたり明治6年10月村社に列し同37年3月縣社に昇格す。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



櫛石窓神社

社殿の後方にある高さ約30mの丘は、宮山と呼ばれ、頂上付近には巨岩が3個あり、宮山は神南備で、巨岩は岩座です、山や巨石等に神が鎮座されるという、古代の信仰をそのままに伝えています。
ご神体の櫛岩窓命座像、豊石窓命座像、大宮姫座像は皆、国指定重要文化財です。ご祭神は、災厄を追い払い皇居の御門を守護する神と女宮神であって、朝廷や領主が厚く信仰しました。もと大芋荘など48か村の総社で、兵庫丹波唯一の名神大社です。

社頭掲示板



櫛石窓神社

神社のある所は古の神田庄大芋郷にして、もと48箇村の總社たり故に、大宮と稱す。
 延喜式神名帳にも亦名神大と記せられたる所以なり。境内に霊厳あり高さ數丈巍然として秀づ又神井あり福井と云ひ御供の水に用ふもと社領富饒祠殿壯麗なりしが應仁以降、細川山名両家の戰亂の爲め、屡其災を被りたり。
 天正中、明智光秀の波多野秀治を征討するや、全莊其焚燒する所と爲りさしも輪換を極めたりし堂宇と累代の寶什とを併せて烏有に歸せり。
 次で社領没収せられ、僅に供田二反の存するあるのみ然れども、境域尚九町歩ありしと云ふ。
 元来神田庄と稱するは、此神社の御供たりしによる故を以て、往昔より霊淑の境として不淨物を埋葬することを厳禁し、必ず他村に持運びたり。之を稱して大芋の持越しと云ふ。
 享保10年(1725)、市野々村民同村内に墳墓を設くるに至り、爲に物議を生じ遂に藩主に訴へ、前例に復し維新迄厳禁せられたり。
 明治6年(1873)、村社に列せられる。同37年(1904)、縣社に昇格す。

兵庫県神社庁



櫛石窓神社

当櫛石窓神社は、天照大神の天の岩戸隠れの折、御門を守った櫛石窓命・豊石窓命の二神を祀る名社で、皇居神祇官西院に御門神の根源の本社として御鎮祭の、神徳広大にして延喜式神名帳に見える明神大社である。
神山の磐座は、神代における櫛石窓命・豊石窓命の二神神降の磐山で霊巌あらたかな禁足の神跡であり、この二神の御神像は国の重要文化財となっている。
御例祭は、4月29日におこなわれ、太鼓神輿の巡行をはじめ巫女舞、餅まきなどで賑わっている。
3月11日には、境内に祀られている火雷大明神の祭があり、昔から雷御守護、災難御守護の御信仰は有名で、多くのお参りがある。 当社を「丹波の国大芋の大宮」ともいう。

社頭掲示板



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