摩気神社
まけじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】麻気神社(名神大) 丹波国 船井郡鎮座

   【現社名】摩気神社
   【住所】京都府南丹市園部町竹井宮ノ谷 1
       北緯35度5分21秒、東経135度25分37秒
   【祭神】大御饌津彦命
   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧府社
   【由緒】神護景雲4年(770)神封一戸
       仁寿2年(852)11月奉幣(文徳実録)
       貞観元年(859)正月27日従五位上(三代実録)
       承暦3年(1079)白河院が勅額を下賜
       宝暦11年(1761)12月18日焼失
       明和4年(1767)7月造営
       明治6年郷社
       明治43年神饌幣帛料指定神社
       大正5年3月府社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は現在地よりやや奥まつた山裾にあつた
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・絵馬社・神門・社務所

   【境内社】菅原大神・大森大神・熊野大神・加茂大神
        三輪大神・若宮大神・月読大神・葛城大神・八幡大神・蛭子大神・山王大神


御饌(みけ)の「み」が「ま」となって摩気神社という。饌(け)は食物の古語で「みけ」は神に奉る御食べ物の意。
鎮座地は、現在地よりやや奥まつた山裾にあつたが、不便さと豪雨による山崩れのために、平坦な現在地に移つたとの社伝がある。


由緒

参拝のしおり
当社は延喜式内の名神大社で(延喜式三及十、名神祭二百八十五座の中の大社)、祭神は大御饌津彦神(おうみけつひこのかみ)である。昔は摩気郷十一ケ村の総氏神であったので摂社にこれを祀る。称徳天皇の神護景雲4年(770年)勅して神封一戸を充て給い文徳天皇の仁寿2年11月(852)勅使を遣わされて幣帛を奉られ清和天皇貞観元年正月(859年)神位従五位上を賜った。醍醐天皇の朝、延喜の制により名神大社に列せられ〔注〕祝部(はふり)をおいて奉仕せしめられた。
〔注〕名神大社とは名神祭にあずかった神社に対して名付けられた名称で、官国幣の大社中、年代も古く由緒正しく崇敬の深厚な神祇を選んで特に奉称したものである。名神大社の中、往古国家の事変に際し祈願のため奉幣して神祇官を遣わす臨時勅祭を行なうを名神祭という。 その後ようやく荒廃に到らんとしたが、承歴3年(1079)白河天皇行幸され其の御崇敬により神事祭礼の旧式を復興し給い、「船井第一摩気大社」の勅額を賜った。後水尾天皇の元和5年(1619年)に小出吉親公封を園部に移して藩主となつてからは、領主代々の祈願所となり、神社建物の一切は官営となっていた。
宝歴11年12月18日(1751年)不幸火災を被り全焼、宝物其の他一切烏有に帰したが明和4年(1767年)に時の藩主小出英持公、社殿を始め一切の建物を再建され現在に至る。
白河天皇以来、当社は九品寺の鎮守として尊崇され、明治以来以前まで久しく当町船阪にある九品寺(真言宗)が当社及び各村末社の祭祀一切を主宰し、本社は当時ここに建てられた神宮寺胎金寺の別当職の社僧により奉仕され、白河天皇皇子覚行法親王も深く御崇敬になり屡々行啓参拝のことがあったが、明治元年神社制度の確立により神仏混淆禁じられ爾来このことは止むに至った。
このように皇室の御崇敬、領主の尊崇も深かったのであるが、明治6年郷社に列し同43年神饌幣帛料指定の神社となり、大正5年3月6日府社に昇格となった。
御祭神大御饌津彦神は、天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)の尊称であって、天御中主神十一世の御孫である天児屋根命の御子である。神代の昔、天祖天照大神が皇孫瓊瓊杵尊に神勅をもって「豊芦原の瑞穂の国を安らかな国として治め、天津日嗣の高御座(皇位)にあって天津御饌を永遠の御饌とし、幾千代変わることなく尊い土地として治めよ」と仰せられて、この国にお降し遊ばされて後、御父の天児屋根命は皇孫に従い仕え奉り、皇孫の御食の水には現国の水に天津水を加えて奉れと申されて御子天忍雲根命をして天上に行き天津水(あまつみづ)を乞わしめられた。そこで命は天の神漏岐、神漏美命の詔により、天玉串を刺し立て、夕方から朝日の照るまで、一心に天津詔詞の太詔詞を申されて遂に天八井(あめのやい)の水を乞い受けられ、天よりお下りになって天神の神勅の通り天津水を奉られた。これより歴朝の大嘗祭に奉る悠紀、主基の大御酒を始め、皇孫命の大御食の水には其の天津水を奉る例となり、命の御仁徳により国民の五穀は豊かになつた。この奇霊の御神徳と御功績により、天忍雲根命を称え奉って大御饌津彦神と申し、農業、食物主宰の神としてお祀りしたものである。
このように五穀の豊饒を守り給い、食糧を始め我が国産業の発達を守護されるのみでなく、御心性非常に情け深く且つ勇ましく優れていられたので国土の安穏、平和を守らせられ国民を慈しみ給うみいずまことに尊く高いのである。
(巷間伝えていう、明治37・8年戦役の時、某日本兵満州の戦場に友軍と離れて飢餓にさ迷い夜中夢の中に白髪白衣の老人現われて一椀の粥を与えて曰く、「これを食してわが指さす方に進め」兵士大いに喜び粥をすすれども尽きず、其の名を尋ねるに「我は丹波北向きの神なり」とのみ答えて姿を消したが、兵士力を得て老人の示す方向に進み無事友軍に帰るを得たという)丹波北向の神は当摩気神社唯一という。
摩気の村名は社号より定まり、社名は祭神より起こったものである。御饌(みけ)神社の「み」が「ま」となって摩気神社と号し、その郷を摩気郷といつたのである。饌(け)は食物の古語で「みけ」は神に奉る御食べ物の意である。現在の竹井は「上新江」と呼ばれ今の仁江を下新江と呼んでいた。即ち昔は現在の竹井、仁江を「新江郷」と称していたものである。
「新江」は即ち「新饗」であって新穀を神.人に饗ること(大言海による)である。大御饌の神に奉る、またはその御神徳により作られる新穀の土地を称えて呼んだ名で、まことにゆかしい由緒ある土地と申すべきである。この事は昔から竹井の氏子の家で精米をするのに、足踏みの「から臼」は決して使わなかったことでもうかがえるのである。
毎年10月15五日町内船阪(約3Km東方)のお旅所における例祭神幸の神事に、牛馬をひき、鋤をかつぎ、俵を持って廻るのは当祭神奉祀の昔、時あたかも陰暦5月5日の田植時で、村民皆、すき、くわを持ち、牛をひいて供養したと伝えられる古事と共に農業主宰の神であることを尊崇する意である。
また、現在も往古からの例により6月5日創祀を記念してお田植祭を執行し、宮主の奉る「ちまき」を早苗に見立てて、神前で田植の手振りを行い、お神楽をあげて乙女のお田植踊りを奉納している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



摩気神社

当摩気神社は往古延喜式内名神大社で祭神は大御饌津彦である。奈良朝称徳天皇御代神護景雲4年以前に奉祀されており1200有余年を経た丹波の古社である。
文徳天皇の仁寿2年(853)勅使奉幣、清和天皇の貞観元年(859)神位従5位上を奉られた。その後承歴3年(1079)白河天皇■■篤く崇敬され神事祭礼を復興されて「■■第一摩気大社」の勅額を賜った。下って■和5年(1619)小出吉親公但馬出石より園部初代藩主として移封されてより10代200年間領主代々の祈願所となり神社建物は一切官営となっていた。宝暦11年12月(1751)不幸火災に罹り全焼したが明和4年(1767)時の藩主小出英持公社殿等一切を再建し現在に至っている。
祭神大御饌津彦命は天孫降臨供奉■■た天児屋根命の御子天忍雲根命の尊称で皇孫邇々杵命が我が国を知らし召すに大切な天津御饌の水を調え奉られた御功績を称してこの御名を奉称し古来農業食物の神として神威誠に高い(マケはみけの転音である)
たたなづく青垣山環る当神社社域と社殿神門鳥居等の建物は森厳な雰囲気を保ちながら珍らしい丹波北向きの神として古社鎮座の聖域に相応しい環境を有している。
京都府文化財保護指定建造物
一、本殿及び東西両摂社(覆屋共)
  本殿は一間社流れ造りで府内最大のもの
同文化財登録建造物
一、神門 絵馬舎 大鳥居
同文化財環境保全地区
  境内全域 広さ約53アール(1600坪)

社頭掲示板



摩気神社

摩氣神社は「延喜式」神名帳にその名がみえ、船井郡の明神大社と記されている。摩氣郡十一ヵ村の総社とされ、本殿は、北を向いて建てられている。永暦3年(1079)白河天皇が当社に行幸された折、社殿一円修造の上、「船井第一摩氣大社」の勅願を賜ったと伝えられる。江戸時代には園部藩主小出氏の累代の祈願所となった。宝暦11年(1761)に火災に遭ったが、その6年後には、藩主小出英特によって本殿・摂社等が再建された。
当神社の主な例祭は、6月に行われる「お田植祭り」や10月中旬に行われる「神幸祭」などがある。
祭神
大御饌津彦命
文化財指定
京都府指定文化財【昭和59年(1984】
本殿 一間社流造、こけら葺
東摂社 桁行二間、梁行一間、一重、切妻造、こげら葺
西摂社 桁行三間、梁行一間、一重、切妻造、こげら葺
附 覆屋、三棟
(明和4年(1767))
京都府登録文化財〔昭和59年(1984)〕
絵馬舎 桁行二間、梁行一間、一重、入母屋造、妻入、鉄板葺
神門 三間一戸八脚門、入母屋造、銅板葺
   〔文化5年(1808)〕
鳥居 石造明神鳥居
   〔寛文12十二年(1672)〕
京都府決定摩氣神社環境保全地区〔昭和59年(1984)〕
本殿・摂社
本殿は大型の一間社流造で丹波のみならず京都府下においても、規模の大きさからいって一間社としては最大のものである。向拝一間であるが、中備として中央に三斗を置いて両脇に蟇股を飾る。妻飾りは二重紅梁大瓶束で、大蟇股を配し、大瓶束に水流形の彫刻をあしらって見所をつくる。また紅梁木鼻等の絵様も明和期にしては比較的おとなしく、江戸後期にあって伝統的な神社建築の流れを受け継ぐ遺構といえる。なお、大工は播州加東郡嶋村から来ている。
摂社は本殿と同時期の造立になり、形式は例の少ない切妻造で、ほとんど装飾りない簡素なつくりをもつ。東摂社が六神、西摂社は八神を祀る。
絵馬舎
絵馬舎は旧の拝殿で、宝暦11年(1761)火災後の明和4年(1767)に小出蓬持が建立した。県立以来、昭和初期まで拝殿であったが、拝殿の新築に伴い移転し、絵馬舎として再用された。板葺きの吹き流しの建物で、もとは茅葺で妻を正面に向けて建てられていた。
神門・鳥居
神門は、文化5年(1808)小出英持によって建立されたもので、旧は茅葺であり、組物に尾垂木付二手先を用い、木鼻を透彫とし紅梁には派手な波形模様を彫るなど文化期の特徴を示している。
鳥居は、寛文12年(1672)小出古久の建立になる。
京都府決定摩気神社文化財環境保全地区
竹井の集落から水田の中を参道がのび、深々とした宮山のふところに本殿・末社・拝殿の覆い屋の茅葺屋根が望める、鳥居の右手にはスギ・マツの巨木が、本殿後方にはスギの木々が立ち並び、その後方には宮田が展開し、そしてクロマツ主体の宮山に続く。
平成21年3月
南丹市教育委員会

社頭掲示板



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