幡日佐神社
はたひさじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】幡日佐神社 丹波国 船井郡鎮座
          (旧地)幡日佐神社【旧地】古宮遺跡

   【現社名】幡日佐神社
   【住所】京都府南丹市八木町氷所中谷山 1
       北緯35度5分41秒、東経135度33分13秒
   【祭神】品陀別命 氷室命
       『京都府船井郡誌』「氷室明神・幡久明神」

   【例祭】10月21日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天正19年(1591)8月27日故宮の地から移転造営
       寛文9年((1669)神吉下村の氷所神社を合祀
       明治6年村社
       明治9年延喜式内社幡日佐神社と公称
       大正10年12月14日社殿焼失
       大正13年4月再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は集落の南縁「故宮遺跡」にあった
        天正19年(1591)8月27日現在地に移転造

   【祭祀対象】夏にも氷を守護し所藏させる霊神を氷室の神として祀る
   【祭祀】江戸時代は「氷室幡久両社大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】若宮神社、栗島神社、稲荷神社
   【境内図】 境内図

氷所神社は神吉下村(裏山をこした北側)に鎮座し、氷室をもち、毎年6月1日、京都御所に献上していた。
その分霊を当村の故宮の場所にうつし氷所大明神と称していた。和銅年間(708-15)池辺郷美濃田村(現亀岡市旭町美濃田)の幡谷山(現在不明)に、八流の幡が天下り、その一つが氷所大明神の境内樹にかかり金色の光を発したという。これは9月18日の事であった。この事があつて以来幡久神社と名づけることになつたとする。
戦国動乱期に氷室大明神が焼失したため当社に合祀し、天正19年(1591)8月27日、故宮の地にあった社を、現在地に移転遷座したという。


幡日佐神社

延喜式内 幡日佐神社
祭神 品陀和気命  氷室命
元明天皇の和銅年間中谷山より光芒燦として幡のたなびくが如く霊感あり天長地久の瑞兆なりとして氷所明神の名を幡日佐大明神と改め故宮よりこの神域に奉遷した、寛文9年氷室命を合祀し古来式内社として弘く崇敬を集めた。
例祭は10月21日で神功皇后三韓征伐の史實に倣い神幸の神事流鏑馬など古式によって伝えられ穀物の豊凶を卜うことになっている。

社頭掲示板



幡日佐神社

幡日佐神社由来記
 人皇第43代元明天皇の和銅元年同国桑田郡池辺の里幡谷山七重滝より毎夜光を発し光棒芒赫々として八琉の旗梢にかかり感応肝に徹するものがあった。 この光は七日にして止んだが、幡のなびくが如き日ざしを見、天長く地久しかるべき瑞相なりとして、氷所明神の名を改めて幡日佐大明神と称し、氷室、若宮、蛭子の三社を境内神社として崇めた。
 天正の頃、丹波宇津の城方に日置の多無貴といえるもの此所に来て、社寺民家に至るまで焼払ったが、幸に神体は恙なく難をのがれたまい残ることが出来た。この時往古よりの古記録は殆んど灰憾に帰したが、慶長5年その筋より禁制として次の制令が下附された。
その村氏神の俄見るべきものあるを以て軍人甲乙等乱妨狼籍の事 田畑作毛刈取の事 右違背する者は厳科に処すべきなり
皇子品陀和気命御母神功皇后の胎内にいます中、三韓を征伐し給うた史実に倣い、菊月18日祭典を行い競馬をして乗馬中弓射をすること今もそのまま行われている。
 氷室の神については、氷所村太平記によれば、亀山天皇の御宇、氷室山より氷を6月朔日宮中に奉った。大宝3年6月2日氷室がおかれた。紀貫之定家卿が和歌を献じ、亀山院も三首下賜されたという。これについては延享2年2月の書類が高雄山普賢寺にあったがこの寺も焼失したため詳かに知ることは出来ない。寛文9年同社を幡日佐神社に合祀された。明治6年村社に列格、同9年延喜式内社に列せられた。同39年指定村社に昇格す。大正10年12月14日祝融の災に遭い社殿は焼失したが、御本体は何の異常もなく、大正13年4月13日 新社殿竣工す。

幡日佐神社由来記



幡日佐神社

氷所村は古來その枝郷であつた神吉下村(裏山をこした北側)に、謡曲「氷室」にも記されてゐる氷室をもち、毎年6月1日、製造し保存した氷を京都御所に献上してゐた。
その場所に氷室大明神が鎭座してゐたが、その御分霊を當村の故宮の場所にうつし氷所大明神と称してゐた。故に故宮所在期の祭神は氷室の神であつた。ところが和銅年間(708-15)池邊郷美濃田村(現亀岡市旭町美濃田)の幡谷山(現在不明)に、八流の幡が天下り、その一つが氷所大明神の境内樹にかかり金色の光を発したといふ。これは9月18日の事で、この日に秋の神事を行なふのもこれに由來するといふ。この事があつて以來幡久神社と名づけることになつたとする。また元文5年(1740)の紀年を附した『幡久大明神縁記』には、一筋の金光が岐れて三つになり、天に「久」の字を書いたやうになつたとも、また八流の幡とは八幡大菩薩の霊験だと思はれるとも記しでゐる。これらよりみると幡久はこの奇瑞を神格化したものかとも考へられる。
以來このまゝで継承されたが、戦國動乱期に宇都城主日置多無貴といふ悪人が氷室を荒し、氷室大明神もために焼失した。字都とは隣郡の有頭郷、旧宇津村現北桑田郡京北町である。この焼失寸前に社人が氷室の御神体を運び出して幡久社に納めた。つまり氷室の神を合祀することになつたわけである。と同時に、故宮の地にあつた神社を現在地に移転造営した。時に天正19年(1591)8月27日であつたといふ。先記した川勝の『由來記』には、合祀期は寛文9年(1669)としてあつて、その事情にはふれてゐない。『氷所大平記』をみると、氷室の土地は元來氷所と神吉三ケ村の入會地であつたが、寛文9年(1669)をもつて神吉下村領と裁定されたとの記事がある。別の口碑に「土地の代りに神をもらつた」とある。これらをあはせてこの年を合祀の年としたのであらうか。『氷所大平記』には、鐘を承応2年(1653)に、鳥居を延宝2年(1674)に新造したともあるから、合祀の時期については、川勝の推考が正確かもしれない。とにかくこのやうにして氷室幡久両所大明神ができて継承したが、明治9年延喜式内社幡日佐神社とされた。後大正10年12月14日社殿焼失し、同13年4月に再建した。

式内社調査報告



幡日佐氷室両神社

八木町氷所に鎮座する幡日佐氷室両神社。長い神社名ですが、氷所の地に古くより鎮座する幡日佐神社に、寛文9年(1669)、八木町神吉に鎮座していた氷室神社を合祀し、幡日佐氷室両神社となったものです。
幡日佐神社は和銅元年(708)創建の古社で、延喜式内社です。氷室神社は氷所にあった冬期の氷を夏まで貯蔵する氷室にちなむ神社です。宮中で「氷の朔日」と呼ばれる旧暦6月1日に氷を食べる「氷室の節会」という行事があり、氷室神社は仙洞御所に氷を献上していました。
社殿は大正10年に焼失し、大正13年に復元したもので、式内社らしく立派な建築です。幡日佐神社は毎年10月21日に八木町日置の大送神社との間で行なわれる夫婦神事でも知られています。同日、流鏑馬神事も行なわれます。また氷室神社では、毎年7月1日に氷献上の故事に由来する氷室祭が行なわれます。

南丹生活



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