船枝の二十町堰道近くに「オモノモリ」と称える塚がある。「瀛居の社」「太古の森」とも書く。ここはかって大樹が繁り船井神社前身の住吉神社が鎮座していたと伝えられている。大堰川にそう港、船舶の寄泊地であつた。この船居多が船居さらに船井と転じたと思われる。大堰川運航守護の神として崇められていたのであろう。 |
由緒 参拝のしおり 此の神社の創立年代は明らかではありませんが大堰川のほとりオコノモリに鎮祭されてありましたが川に近く境内も狭まかつたので慶雲2年9月13日(1970年より1265年前)現在の地にお遷しになりました。 当時大堰川は唯一つの交通路でありまして神社の西方は入江となり諸船や筏が集まり交通の中心地でありまして住吉三神が祭られたことは当然だと思われます。 その後老の坂、亀岡、埴生、生野への陸路が発達して大堰川は裏通りとなり神社も衰微荒廃して社殿の改築等も行はれなかったやうであります。其時当時の丹波国司が奈良から春日四柱を合祀して以来春日神社と称しましたそして田、山林二百町歩を神領としました。其後地震や火災にあい宝物、旧記を失い天保6年2月社殿を造営し現在に至りました。又鎌倉時代安城寺と云う寺を建て社僧が神社を支配し神官は祭祀を司る時代もありました。明治維新の前園部藩にて神社調査の結果元の船井神社と改称し明治6年郷社となり祠官職を置き明治9年京都府に於いて調査考証の上延喜式内社に公定され國幣を賜り郡中第三位でありました。昭和15年皇紀2600年を記念し府社に昇進を申請しましたが戦争其他に依り目的達成出来ず今日に至って居ます。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
船井神社 左甚五郎作といわれる拝殿の馬が毎夜抜け出て文覚池に水をのみにいったのですが、くびに鈴をつけていたのでやかましく村の人が困りました。そこでみんなで相談して網を張ることにしました。それからは静かになったそうです。「船井神社史より」 (拝殿の馬の絵馬には金網が張られている) 社頭掲示板 |
船井神社 創立と沿革 神功皇后の三韓征伐の時、住吉明神に守護を祈られたところ、住吉明神が表れて御舩を守護し、海路つつがなく航海できた上、三韓征伐も成功したので、凱旋後、神功皇后はこの地に住吉明神(舩井神社)を祀った。(『和名抄』)とある。 舩井神社の「舩井」の名称は、大堰川(桂川)を用材を積んで京へと下る船の停泊地であるという船居に由来する。 大堰川の清流近く舟運の守り神として祀られるとともに、船枝村、清谷村、室橋村、美津村、畑中村、諸木村、野条村の産土神でもあった。 大堰川の氾濫により、文武天皇の御宇、慶雲2年(705年)に此の地「鹿の森」へ遷宮と伝える。仁和3年(880年)大地震のため、社殿崩壊し、安和2年(970年)社殿を営殿す。その後、崇徳天皇の御宇、保安元年(1120年)丹波国司三条宰相藤原家保卿、南都より春日四座の神を勧請してこの社に合祀される。寛政6年(1794年)に拝殿再建される。本殿は、天保3年(1832年)に焼失、天保6年に再建されたものである。 平成17年(2005年)遷座千三百年祭典を齋行。 平成27年(2015年)神楽舞奉納。 公式HP |
船井神社について 祭神 住吉神 (表筒男命 中筒男命 底筒男命) 春日神 ( 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神) 例祭 10月21日(近くの日曜日) 式内社(延喜式神名帳-927年-に記載されている神社)、郷社 創建は「神功皇后の三韓征伐の時、住吉明神に守護を祈られたところ、住吉明神が現れて御船を守護し、海路つつがなく航海できたうえ、三韓征伐も成功したので、凱旋後、神功皇后はこの地に住吉明神(船井神社)を祀った。」(「和名抄」)とある。 ここより西北500mの地、大堰川二十町堰近くに「オコノモリ」と称える塚がある。 「瀛居の社」「太古の森」とも書く。ここはかって大樹が繁り、船井神社前身の住吉神社が鎮座していたと伝えられている。 船井神社の名称は、大堰川を下る船の停泊地「船居」に由来する。 大堰川の清流近く船運の守り神として祀られるとともに、船枝村、清谷村、室橋村、美津村、畑中村、諸木村、野条村の産土神でもあった。 大堰川の氾濫により、天武天皇の御宇、慶雲2年(705)に此の地に遷宮と伝える。 その後、崇徳天皇の御宇、保安元年(1120)丹波国司三条宰相藤原家保卿、南都より春日四座の神を勧請してこの社に合祀される。 現本殿は天保6年(1835)に再建されたものである。 平成17年(2005)、遷座1300年祭典を斎行する。 境内の大杉や大榧、大公孫樹に悠久の時の流れを、立派な本殿や拝殿に奉納されている左甚五郎作の金網に覆われた絵馬をはじめ多くの絵馬等に古来新庄の郷の産土神として敬神崇祖のあつい思いの歴史を感じさせられる。 社頭掲示板 |