鍬山神社
くわやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鍬山神社 丹波国 桑田郡鎮座

   【現社名】鍬山神社
   【住所】京都府亀岡市上矢田町
       北緯34度59分48秒、東経135度34分39秒
   【祭神】大己貴命・誉田別命
   【例祭】10月24-25日 例祭
   【社格】旧府社
   【由緒】和銅2年(709)創建
       永万元年(1165)5月8日誉田八幡が天岡山(面降山)降臨
       寛正3年(1462)造営
       慶長6年(1601)造営
       慶長15年(1610)造営
       寛永16年(1639)造営
       文化11年(1814)造営
       明治6年郷社
       昭和3年府社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は医王谷か
        慶長15年(1610)現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「鍬山神社」と称していた
       とくに社名の変更はなかつた

   【公式HP】 鍬山神社
   【社殿】本殿権現造檜皮葺
       拝殿・神輿庫・社務所

   【境内社】
   【境内図】 境内図

古代聚落が医王谷一帯に存在し、鍬山神社の古い位置がこの地ではなかつたかと考えられる。
医王谷に住んでいた医王・丹波康頼が医療の祖・大己貴命を祀ったとも伝えらる。
この地への遷宮は慶長15年(1610)と思われる。
本殿の鍬山宮と八幡宮は同じ垣内に鎮座し、鍬山宮は向かって左、八幡宮は右に位置する。鍬山宮と八幡宮は不仲であるという伝承があり、両宮の間には小池があり、両宮が争わないため設けられたという。


鍬山神社

鍬山神社 当社は、和銅2年(709)に創祀されたと伝えられる古いお社で、鍬山大明神または矢田社とも呼ばれていました、平安時代に著された「延喜式」神名帳にも丹波国桑田郡十九座の一つとして記載されています。
社伝等によると、亀岡盆地が湖だった頃、大己貴命(大国主命)が黒柄山に八人の神様を集め一艘の樫船に乗り一把の鍬で浮田(請田)の峡を切り開き、肥沃な農地にされたと伝えます。里人はこの神徳を称え天岡山の麓にお祀りしたのが始まりで名前も開削に使った鍬が山積みになったことから鍬山大明神と呼ばれました。
また、鍬山大明神の横に祀られている八幡宮社は、永万元年(1165)に誉田神が降臨され、以後祀られることとなりましたが、両宮の社殿が現在地に建立されたのは慶長15年(1610)亀山城主岡部長盛の時です。
なお、当社で行われていた神事芸能の一つに、現在の能楽の源流の一つともなっている「丹波猿楽」があり、平安京はもとより摂津・河内など各地に出向いて活躍していましたが、天正4年(1576)明智光秀の丹波進攻の混乱により悉く廃れたと言われています。
その後、歴代亀山城主が神領等を寄進するなど保護に努め、徐々に祭礼が復興しました。10月24・25の秋の例祭は、11基の山鉾が出て祇園囃子を奏で、口丹波の祇園祭としても親しまれています。この山鉾行事も藩主と町衆が一体となって守り伝えてきたものです。

社頭掲示板



鍬山神社

和銅二年(709)に創祀と伝え、平安時代に編纂された『延喜式』「神名帳」にも記載された丹波国桑田郡十九座の内の一社で、本年は創祀1300年を迎える古社です。
社伝によると、太古の昔、丹の湖であった亀岡盆地の南端の黒柄山に八柱の出雲の神々が降臨され、一艘の樫舟にのり、浮田の峡、現在の保津峡を鍬や鋤を使って開削し、水を山城国へ流し、人々が住める肥沃な耕地を造ったと伝え、その時に使った鍬が山のようにうず高く積みあがったことから、鍬山と呼ばれたとも伝えます。
ふるさと亀岡を開拓した先人の偉業を神話として伝えているものです。同社の祭神は大己貴命(大国主命)と誉田別尊(応神天皇)の二柱をお祀りしています。
この内、大己貴命は、天照大神と月読命と共に三貴神とされる素盞鳴尊の御子、または六世の孫とされる神で、出雲神話の主役であり、国造りや国土経営、農業、疫神送り、医薬温泉の神として古くより崇敬されてきました。永観2年(984)に日本最古の医学書である『医心方』三十巻を著した丹波康頼もこの鍬山神を崇敬していたとも伝えられます。
一方、誉田別尊は、永万元年(1165)に天岡峯に弓矢を負った武人の姿で降臨されたと伝えられ、八幡宮として祀られました。その後、社殿に嫗の舞楽面が降り、皇居に降った翁面と合わせて神宝として当社に祀ったと言われています。このことから天岡峯は面降山とも呼ばれるようになりました。

公式HP



文化財

京都府登録文化財
有形文化財 鍬山神社及び境内社八幡宮本殿(建造物) - 昭和58年4月15日登録。
無形民俗文化財 亀岡祭山鉾行事 - 保護団体は亀岡祭山鉾連合会。平成16年3月19日登録。
京都府文化財環境保全地区
鍬山神社文化財環境保全地区 - 昭和60年5月15日決定。
亀岡市指定文化財
無形民俗文化財 亀岡祭山鉾行事 - 保護団体は亀岡祭山鉾連合会。平成10年8月3日指定。
その他
亀岡の自然100選「鍬山神社・八幡神社」

ウィキペディア



鍬山神社

大巳貴尊を祀る、本社は初め医王谷に在りしが今字上矢田面降山に鎮座し、山陰街道を北に距つること約十町、景勝の地を占む。社傳に拠れば、和銅2年の創建にかかり、延喜式内の官社として撰録せられたりと。
後慶長に至りて、領主岡部長盛社殿を造営し、社田を寄進し、寛永年中領主菅沼氏亦社領を寄せたり。今本社には其沿革を物語るべき古文書記録等所藏せらるるもの少からざるを以て、今これによりて其変遷を辿るべし。
現在の社殿は権現造にして文化11年の造営に係るものの如きも、今本社に現存せる棟札には寛正年間以後のもの存し、皆其時代のものに属す、左に其二三を揚ぐべし。
本社造営の一端を窺ふに足るべく、応仁乱後一度社運衰退せしを慶長寛永の頃に至りて再興せられ面目を一新したるなるべし。 天正19年5月11日豊臣秀秋其臣渡邊勘右衛門に命じて、本社に禁制を出し、戦乱の巷より之を保護し、同年5月16日寄進状を出して社領を寄す。
文録4年10月豊臣秀秋又重ねて禁制を出し、社領三石五斗五升を寄進せり。慶長6年亀山城代北條左衛門社頭の荒廃を憂へて、違乱の者を厳禁し、慶長14年3月3日城主岡部長盛再び禁制を出せり、其文にあるよう見れば、此時既に櫻花、紅葉等境内に多く、賽者の花を賞するもの多かりしを知るべし。寛永11年菅沼織部正定芳は亀山城主となりしが、其翌12年正月境内神社八幡宮に神領を寄せて、源家並に自家の繁榮を祈り、寛永20年菅沼正昭其封を縦ぐや、八幡宮領として、十七石余を寄進し、松平氏城主たりし後殊に崇敬の意を致せり。
江戸時代を通じて天台宗大智院別当寺として本社を管理し、祈雨祭、厄除祭等屡々行はれたり。
境内は社殿の荘厳と相俟ちて、風致に富み盥魚庭落葉には矢田二十景を褐げ、又矢田八景と称するあり、古来文人墨客の杖を曳くもの少からざりしを知るべし。
明治6年郷社に加列し、例祭は10月之を行ひ、其渡御式の盛大なる郡中其比を見ざるところなり。

南桑田郡誌



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