与能神社
よのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】与能神社 丹波国 桑田郡鎮座

   【現社名】与能神社
   【住所】京都府亀岡市曽我部町寺蛇谷 1
       北緯34度58分57秒、東経135度32分50秒
   【祭神】事代主命 健御名方命 天照皇大神 天児屋根命
   【例祭】10月22日 例大祭
   【社格】
   【由緒】崇神天皇御宇四道将軍丹波道主命創祀
       嵯峨天皇の御世(810)神宮寺建立
       仁和2年(886)11月14日従五位下
       文応元年(1260)造営
       慶長8年(1703)造営
       正徳4年(1714)改修

   【関係氏族】
   【鎮座地】社地の変遷はなかつたようである

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

当初は大和東大寺が別当であったが、嵯峨天皇の御世(810)に丹波に三つの神宮寺が建てられ、與能神宮寺はその一つで、曼茶羅堂・講堂・五重塔などがあったとされる。


由緒

與能神社
由緒掲示板
延喜式内社で「諸国鎮座神秘抄」の写しによれば、奈良時代の四道将軍丹波道主命が国家鎮護の為、桑田郡に三座の神社を祀った、これ三宅神社・山國神社・與能神社である。と記述され奈良の東大寺が別当寺であったが、與能神宮寺が建立され、現在の御旅所を中心に曼茶羅堂・講堂等、寺区全域に伽藍・五重塔などが立ちならび、その地名が今も現存している。皇室・大名等の崇敬が篤く、口丹波南部の中心として隆盛を極めたが、鎌倉時代に兵火にあい焼失したが、複弁蓮華軒丸瓦や五重塔の心礎・礎石などが現存している。又、「谿端與能宮旧記」によると、僧空海が嵯峨天皇の命により神宮寺の奥ノ院露堂に僧形八幡(現存)を祀り護摩祈祷を行った。後嵯峨天皇が村山與能八庄を神領として寄進されたと記されている。本殿は三間社流造りで蛙股の四神(玄武・白虎・蒼龍・朱雀)などの彫刻はすばらしく、現存する慶長八年(1703)の棟札によると、文応元年(1260)に建立された本殿が慶長元年の地震で倒壊し同八年再建されたことがわかる。現在の本殿は正徳四年(1714)の棟札により改修されたものと考えられる。京都府登録文化財で、鎮守の森一帯は文化財環境保全地区に指定され、又、シイ、カシなどブナ科の巨木が残っており京都府の自然200選(植物の部)に社叢林として選定されている。境内には応永22年(1414)の銘のある優美な橘形仏燈があり、石造美術として日本燈籠史に掲載されている。例祭は10月22日で古来「六華祭」と云う名で呼ばれ、六ヶ村の氏子を御輿がまわる輪番が廻り地蔵で決められる神仏習合の形が残っている祭りである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



與能神社

与能神社(延喜式内社) 曽我部町寺
祭神として事代主命(えびすさん)建御名刀命(諏訪さん)天照皇大神(お伊勢さん)天児屋根命(春日さん)の四神を祀る。
「諸国鎮座神秘抄」によると奈良時代に四道将軍丹波道主命を国家の平和鎮護の為祀った与能神宮寺が起源とされ、現御旅所を中心に、曼荼羅堂、講堂等寺区全域に伽藍を誇り、皇室の崇敬篤く口丹波南部の中心として隆盛をきわめたが鎌倉時代以後兵火にあい焼失した(礎石、古瓦が現存)また「谿端與能宮旧記」によると、空海が嵯峨天皇の命により神宮寺を開き奥院露堂で護摩修行を行い、後嵯峨天皇の代に村山、与能など八庄を神領として寄進を受けたとされる。
立派な彫刻のある本殿は三間社流造で、現存する慶長8年(1603)の棟札によると社殿が文応元年(1260)に建立され、慶長元年(1596)に地震により倒壊し、同8年に再建されたことがわかる。現在の本殿は正徳4年(1714)に改修されたものと考えられる。境内には応永21年(1414)の銘のある石灯籠があり、境内の百太夫社は芸能の神としてその方面の崇敬をあつめいる。

社頭掲示板



與能神社

延喜式内社で「諸国鎮座神秘抄」の写しによれば、奈良時代の四道将軍丹波道主命が 国家鎮護の為、桑田郡に三座の神社を祀った、これ三宅神社・山国神社・與能神社で ある。と記述され奈良の東大寺が別当寺であったが、與能神宮寺が建立され、現在の 御旅所を中心に曼茶羅堂・講堂等、寺区全域に伽藍・五重塔などが立ちならび、その 地名が今も現存している。皇室・大名等の崇敬が篤く、口丹波南部の中心として隆盛 を極めたが、鎌倉時代に兵火にあい焼失したが、複弁蓮華軒丸瓦や五重塔の心礎・礎 石などが現存している。又、「谿端與能宮旧記」によると、僧空海が嵯峨天皇の命に より神宮寺の奥ノ院露堂に僧形八幡(現存)を祀り護摩祈祷を行った。後嵯峨天皇が 村山與能八庄を神領として寄進されたと記されている。本殿は三間社流造りで蛙股の 四神(玄武・白虎・蒼龍・朱雀)などの彫刻はすばらしく、現存する慶長8年(17 03)の棟札によると、文応元年(1260)に建立された本殿が慶長元年の地震で 倒壊し同八年再建されたことがわかる。現在の本殿は正徳四年(1714)の棟札に より改修されたものと考えられる。京都府登録文化財で、鎮守の森一帯は文化財環境 保全地区に指定され、又、シイ、カシなどブナ科の巨木が残っており京都府の自然2 00選(植物の部)に社叢林として選定されている。境内には応永二十二年(141 4)の銘のある優美な橘形仏燈があり、石造美術として日本燈籠史に掲載されている 。例祭は10月22日で古来「六華祭」と云う名で呼ばれ、六ヶ村の氏子を御輿がま わる輪番が廻り地蔵で決められる神仏習合の形が残っている祭りである。

社頭掲示板



与能神社 附神宮寺遺址

寺村に鎮座し、事代主命外三神を祀る。曾我部小学校より南数町曾我部村の平坦地を俯瞰し、形勝の地位を占む。其創建沿革を詳にせざるも、延喜式旧官社にして、日本三代実録仁和2年11月14日の條には「丹波国正六位上為与熊神從五位下」とありて此時神階昇叙のことありしを知るべし。輿熊は與能の誤なるべし。本殿は三間社流造にして。近時の造営にかかるものの如し。
(中略)これに拠つて見れば社殿はもと亀山天皇の文応元年に建立なりしを慶長元年京都大地震の震動の為に破壊せられ、其の後漸く七年を経て慶長8年岩崎氏等の寄進によつて本郷の大工の手により再建せられたるものの如く、而もこれより社運も漸く隆昌に赴きしものの如し。然れども今の社殿は慶長の面影を存せざるは惜むべし。
これより先足利初期の書写に係る諸国神名書(京都六條八幡社所蔵)には丹波九座の内夜野大明神とあり、其後江戸時代に至りては、藩主の崇敬亦厚かりし如く、明治6年郷社に列せられ、曾我部一村の氏神として帰敬する所たり。
而して上代に於ける本社の昌運を物語るものは別当寺たる神宮寺の沿革なるも不幸古文書記録等湮滅して今それを知ること能はざるも、幸に寺址の礎石及び古瓦一面今保存せられ、ほぼ創建の時代を考察することを得るを以て茲に併せて記述し置くべし。
傅ふる所に拠れば輿野神宮寺は嵯餓天皇の御代の創建に係り僧空海天皇の勅によつて神宮寺奥院露堂に於て護摩修行を行ひ、後嵯峨院の時村山、興野等の八庄を神領に寄進せられしと云ひ、又口碑には口の院を二階堂と云ひ奥院を露堂と称したりと云ふも詳ならず。
今本村を大字寺村と云ひ、或は堂の前と云ふは由緒なきにあらず、江戸時代に於ては社域に明星山三光寺ありて天台宗に属し東叡山末たり、中興を僧心曉坊賢運とせるも、今廃滅しほぼ同地域に浄土宗無量寺あり、今無量寺境内毘沙門堂の前にかかれる鰐口は経七寸九分厚さ二寸一分あり、二重圏の中央に稍精錬を欠ける蓮弁あり、周囲に左の如く名を鋳出せり。
けい長二年九月吉日口志
いはさきいき
文字磨滅して甚だ読みがたきも、慶長2年なること明かにて、本郡に於ける最も古き鰐口なる如く、而も三光寺中興の時に鋳造せられしものなるべし。
而して今この無量寺北東、現今本社の御旅所となれる裏側桑畑の東田畑中にて発見せられたる堂塔礎石は本村字犬飼井口徳太郎氏の庭園内に移置かれ、其中塔婆中心礎石と見るべきもの一個及其の他四個あり無量寺庫裡の踏石に一個あり。
もとより磯石の位置移転せられたれば、往時の規模を察すること能はざれども、個々の礎石は中央に造出しあり、ただ大礎石のみ特別の装置を見られ、今所藏者井口氏庭園の手洗水鉢となれ居れるを以て、多少の変形なきにあらざるも全体より見てこれを柱心礎として塔婆址の礎なること疑ふべからず。而して礎石の発見せられたる地域の東側は坊垣内と云ひ、北側を地藏垣内と云ひ、今輿野神社のある処を宮垣内と称し、礎石のありし所は俗に二階堂と称する所にしてこれより奥院(露堂)と称する所に通ずる如し。此の附近道路の改修等ありて地形の変遷せるを以て、今堂址土壇の跡等を発見し得ざれば配置を考察すること困難なれども、略この大塔を中心として北東に堂字の存せしことを想像せらるべし。而して明治20年頃此地域開墾の際礎石ありし附近より、図版に挿入せる如き直径六寸、厚さ一寸四分の優麗なる疏瓦を発見することを得、二階堂光尚氏の珍藏する所となりたるを以て、今これを一覧するに及び、神宮寺の建立の年代が奈良朝に属すること疑を容れざるに至れり。
師ち本疏瓦は複弁華文を有せるものにして、中房大にして十八個の蓮子を容れ、入葉の蓮弁周囲に展回し、線は斜面に波紋帯を置きて凸起せり、其の様式全く奈良朝に属す。
本郡に於て古瓦の発見せられたるは、千歳村園分寺及出雲神社と篠村となり。而して千歳村は国分寺、丹波一宮の所在地として当時文化の中心たりしこと想像し得らるる所なるが、他面曾我部村が本郡に於ける往古文化の中心たりしこと、この堂々たる大伽藍の存在せると、穴太寺の創建せられたることによりても窺知することを得むか。

南桑田郡誌



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