古くは丹波(たにわ)といわれ、赤い土で染まった大きな湖だったこの地を、出雲大神が八人の地祇と協力して、浮田(請田)の狭を切開き、湖を干拓して桑畑(桑田)に変えたという。その謂れにより左岸に請田神社、右岸に桑田神社、そして干拓に用いた鍬が山を成した上矢田の地に、鍬山神社を祭ったと伝えられる。 この社の背にある岩が高く立並び保津川の側壁を爲している。この様な状態を石穂と云うのであろう。 永禄年間に社殿が焼失し、同じ保津村の八幡宮内に遷座されていたが、寛永年間に現在地に社殿を造営して復座した。 請田神社を石穂神社にあてる確かさは必ずしも大きくない。「式内社調査報告」 |
請田神社 請田(うけた)神社 大山咋神と市杵島姫命(一名狭依姫命 宗像三女神の一つで後世は弁財天という)末社に稲荷大神を祀る。 永禄年間、兵火により社殿、文献共に焼失して縁起不詳だが、祭神大山咋神は、丹波地方を開拓するため、出雲地方から来られた神といわれ、当社および川向うの桑田神社のある保津川入口から開拓を始められたと伝える。 この開拓着工のクワ入れを受けたので社名を「請田」と呼ぶようになったという。 毎年10月21日の秋の大祭は、前日の宵宮祭に始まり、珍しい火祭で、本宮から保津八幡宮内の頓宮に神霊を迎える花々しい祭典が行われる。 社頭掲示板 |
請田神社及八幡宮 請田神社は古来松尾神社とも称せられ字岩尾に鎮座し、保津川の急瑞に臨み形勝の地を占め、明治6年村社に列し、大山咋神を祀る。而して又保津川の急瑞を隔て、対岸篠村字山木にも桑田神社と称するものありて大山咋神を祀る。而して延喜式丹波桑田郡松尾神社はその何れを指せるものなりやは、今日それを考定するの不可能なるは云ふを俟たず。 もとより本社の創立等中世以前のことは詳かならざれども、社伝に拠れば、永録年中兵火に罹り、以後保津村字宮の上に遷座せしも、寛永年中再び奮地に復座すと云ふ。現時遙拝地と称するもの字宮の上にあり、これ永録以後一時遷座の社跡なりと云ふ。後節に述ぺむとする八幡宮は即ちこの社跡内に鎮座す。本村には僧文覚の開基なりと伝ふる文覚寺あり、同寺所蔵の古文書の中、正親町天皇の永録6年6月14日の綸旨及後陽成天皇天正16年9月23日の綸旨に拠れば、高雄神護寺が天文17年7月の兵火に羅り、藪ヶの寺院亦共に回録に帰せしことを明かにせることにより考察すれば、この文覚寺も当時同じく兵災に羅りしなるべく、その隣地に鎮座せる請田神社が永録年間に焼失の為め他に遷座したりと云ふ社傅は蓋し誤なかるべし。江戸時代に至りて歴代領主の崇敬するところとなり今請田神社所藏の左の寄進状によれば領主菅沼織部正定芳より山役米の内より二石を社に寄進したる如し。 南桑田郡誌 |