大宝2年(702)に、月読命・市杵島姫が、京都嵐山の松尾大社から大堰川(今の保津川)を亀に乗って来られたが、八畳岩のあたりから水の流れが速くなって進めなくなり、鯉に乗り換えて、河原林町まで来られ、後に大井にうつられた。 大井神社氏子内では、その鯉の大功を崇め大切にし、鯉を食べないばかりか触れることもせず、五月の節句の鯉のぼりも揚げない風習が今も語り継がれている。 |
大井神社 大井神社(大井町並河) 和銅3年(710)の創建、光秀の兵火で焼失した社殿を天正12年(1584)秀吉が片桐且元を奉行として再建せしめたものという。 祭神は御井神、月読神、市杵島姫命で、伝説によると御井神(木俣神)が市杵島姫命と洛西松尾大社から神使の亀に乗って大堰川を遡上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗りかえて、ここ大井に上陸して鎮座されたということである。 爲に当社の氏子は鯉を尊び、食用は勿論、捕えることを禁じ5月の節句に鯉のぼりもあげない風習が続いている。10月16日の例祭には古く貞観8年(866)に始まったという勇壮な競馬が当社の馬場で武者姿の氏子により奉納される。 社頭掲示板 |
大井神社 【沿革】和銅3年(710年)9月、元明天皇の勅命により創建された。 天正4年(1576年)、明智光秀の丹波平定に際し兵火に罹ったが、同12年(1584年)豊臣秀吉が再興し、造営の片桐且元が「正一位大井大明神」の扁額を自署して奉納。 その後、高槻城主の遠山長貞が鰐口を寄進した。 約400年に亙り風雪に耐えるも社殿の損傷が著しく、平成21年(2009年)10月、御鎮座壱千参百年記念事業として、御本殿の全面修復が行われた。 「大井」の名の発祥 往古、亀岡の盆地は泥湖であったが、大変革の時に湖の中心点が乾き残り(現 当社神池)、旱魃でも涸れない「大いなる井戸」として、永く存したことに由来する。 その大井の水に万一のことがあれば、平野一帯は瞬時にして前の如く湖水になるのを憂いて、木股命(御井神)を大井神社に勧請して篤き守護を祈った。 鯉伝説(鯉のぼりをあげない里) 大宝2年(702年)に、御祭神が京都嵐山の松尾大社から大堰川(保津川)を亀の背に乗り遡って来られたが、八畳岩の辺りから水勢が強くなって進めなくなり、そこへ現れた鯉に乗り換えて勝林島の在元渕(河原林町)まで来られ、後に大井へ遷られた。 最初に在元渕に建てられた社を在元社と呼び、この社を建てた大工が住んでいた里は、今でも「宮前町神前(みやざきちょうこうざき)」という地名としてのこされている。 大井神社氏子地内では、この鯉の大功を崇め敬い大切にし、鯉を食べないばかりか触れることもせず、本物の鯉だけでなく絵や人形でさえも触れようとしなかった。 後の世に「鯉のぼり」の風習が全国的に広まっても、やはり例外ではなく、現在でも五月の節句に鯉のぼりをあげない風習が残り継がれている。 また古老の中には、鯉のことを呼び捨てにせず「お鯉さん」と呼ぶ者もいる。 公式HP |
大井神社 字並河の鎮座にして、御井神、月読命、市杵島姫命を祀る。本杜は既に延喜式載録の旧社なるも、今史料存せす、其沿革を明かにすること能はざるは遺憾とするところなり。口碑に社に酒美豆男神、酒美豆女神二神山城松尾神社より鯉に乗りて大井川を遡らせ給ひて、此地に鍾座せりと榑ふるは、山城松尾神社との關係を示せる興味深き伝説にして、山城松尾神社との関係は別項論述するところなればここには省略すべし。 社伝に本社は和銅3年の創建に係り,貞観8年競馬を許され、天正4年社殿兵災に罹り、同12年豊臣秀吉社殿を再興し、造営の奉行片桐且元自ら正一位大井大明神の扁額を自署して奉納し、其後高槻城主遠山長貞鰐口を寄進せることありと。此等什宝の今現存せざるは惜しむべし。江戸時代には本村東光寺は別当として本社を管理せる如し。明治6年郷杜に加列し、例祭は現時10月16日行はる。 南桑田郡誌 |