伊達神社の所在地は、亀岡盆地内でも最も低い所で、大堰川の形成した氾濫原上である。 神奈備は牛松山で、丁度愛宕山が隠れる位置に鎮座している。 古くは隣接する法蔵寺の境内社であったが、延享4年(1747年)の大堰川の氾濫によって宝蔵寺とともに流出。 一説には、奥州藤原氏の藤原秀衡の三男・忠衡の別荘が宇津根にあり、その霊を祀ったのが当社、別荘がのちに法蔵寺となったされる。 |
伊達神社 当社は平安時代中期に編纂された『延喜式』「神名帳」にも記載された古社です。延享4年(1747)の大堰川の氾濫により、隣接の宝蔵寺とともに流出し、記録類も失われました。 祭神は、素戔鳴尊の御子の五十猛命で、「杉、檜、楠」など八十木種を播き育てた植林の神です。 現在、宝蔵寺に接していますが、江戸時代には、宝蔵寺の境内社で、明治の神仏分離に際し現在地に移転しました。 本殿は、切石積基壇の上に土台をすえて立つ小型の一間社流造です。その基壇には「寛政元酉年再建」の刻銘があり、寛政元年(1789)の造営であることがうかがえます。 造りは、繊細で細部まで手が込んでおり、境内社としてはかなり立派なもので、江戸期の寺院鎮守社にふさわしい本殿です。 社頭掲示板 |
伊達神社 際神 五十猛命 延喜式内社 伝えによれば、大治年中奥州藤原秀衡の三男泉冠者忠衡義経を守り、兄泰衡に攻め殺されるが、京都の守衛に来てこの辺に館を構え、土地の娘とねんごろになり、娘は懐妊した。忠衡は5年の任を終えて帰国するに当たり、生まれる子が男子ならば3年養育して、鎧、太刀を印とし、黄金を旅用として奥州へ下れ、もし女子ならば、この黄金を以て嫁せしめ、鎧、太刀を引き出物にせよ、と言い残し単身東国に帰った。生まれた子は女子であったので村人に嫁し栄えた。後にこの娘が社を建て、父忠衡をあわせ祭ったと考えられ、土地の状況からして社の元は加塚にある伊達神社で、後にここへ移されたと思われる。 社頭掲示板 |