小幡神社
おばたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小幡神社 丹波国 桑田郡鎮座

   【現社名】小幡神社
   【住所】京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内
       北緯35度0分29秒、東経135度32分49秒
   【祭神】開化天皇 (配祀)彦坐王 小俣王
   【例祭】10月22日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】崇神天皇10年四道將軍道主命が開化天皇を祀る
       和銅元年(708)大神狛麿が社殿を造営
       文和6年(1357)2月1日造営
       明応元年(1492)造営
       永正元年(1504)造営
       永正6年(1509)4月3日足利義尹(義植)が小幡神社社地の御教書
       慶長18年(1613)造営


   【関係氏族】
   【鎮座地】この地が当初鎮座の地

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       拝殿

   【境内社】

小幡神社は犬飼川西岸に突出した山地端にあるが、この尾根上には穴太古墳群が立地している。
亀岡盆地内でもとりわけ典型的な條里型地割の分布するところで、古くから開発の進んだこの平野に突出する好位置を占めている。
古代には東を犬飼川、北を山内川、南と西を山地で限られた範囲をおおよその範囲として小幡神社が成立していた。
式内社の中で開化天皇を主祭神として祀る神社は当社のみ


由緒

延喜式内小幡神社由緒書
参拝者配布用
祭神1.開化天皇。和風の諡(おくりな)は『古事記』に若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおひひのみこと)と記し、『日本書紀』に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)記す。孝元天皇の第二子と伝え、開化天皇の第二子を崇神天皇とする。祭神2.彦坐王(ひこいますのみこ)。『古事記』に日子坐王と記し、『日本書紀』に彦坐王と記す。開化天皇の御子とする。『古事記』によれば、崇神天皇の代、丹波へ派遣されて、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を誅伐したと伝える。祭神3.小俣王(おまたのみこ)。彦坐王の御子で、『古事記』によれば、山代(やましろ)の荏名津比売(えなつひめ)(亦の名苅幡戸弁=かりはたとべ)を母とする。丹波の地域が丹波と丹後に分けられたのは、和銅6年(713)であり、それ以前の丹波は、丹後を含む地域であった。丹波の古伝承でみのがせないのは、『古事記』や『日本書紀』に記載する倭(やまと)王権とのかかわりである。『古事記』には若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が旦波(たには=丹波)の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)の娘である竹野媛を娶(めと)って、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)を生むと記し、『日本書紀』では稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)が丹波の竹野媛を納(め)して彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生むと記す。開化天皇の妃が丹波大県主の娘であったとする『古事記』の伝えは、「大県主」と称される県主が、河内の志畿(しき)大県主の説話(『古事記』雄略天皇の条)のほかにみえない点で注目すべきである。丹波の出自をめぐる皇妃伝承には、『古事記』や『日本書紀』に垂仁天皇の代のこととしてみえる丹波道主命(みちぬしのみこと)の娘を妃にした説話あるいは『日本書紀』の仁徳天皇十六年の条に載(の)す仁徳天皇と丹波の桑田の玖賀媛(くがひめ)との悲恋説話などがある。
『日本書紀』には、崇神天皇60年の条に丹波の氷香戸辺(ひかとべ)の小児(わかこ)に出雲大神の託宣があったとする伝えがあり、また垂仁天皇87年の条に、丹波の桑田の甕襲(みかそ)が勾玉(まがたま)を貢上したとする伝承がみえているが、とりわけ重要な所伝は、武烈天皇なきあとの皇嗣として擁立されんとしたのが、丹波の桑田にあった倭彦王(やまとひこのみこ)であったとする記載である。倭彦王は即位を避けて身をかくしたという(『日本書紀』継体天皇即位前紀)。弘計王(をけのみこ=顕宗天皇)・億計王(おけのみこ=仁賢天皇)もまた丹波に難を避けた皇子であり、「丹波の小子(わらこ)」とよばれたことが、『日本書紀』(顕宗天皇即位前紀)にみえている。延長5年(927)に奏進された『延喜式』にも収録されている丹波国の小幡神社は、延喜式内の古社であって、開化天皇を主神とする式内社は、全国いずれの地にもない。なぜ開化天皇を主神とし、相殿に彦坐王と小俣王を祭祀するのか、そのいわれは前述の倭王権と丹波とのかかわりに深く根ざしている。
『日本書紀』には有名な「四道将軍」の派遣説話があり、崇神天皇の10年9月に、大彦命(おおひこのみこと)を北陸へ、武渟川別(たけぬかかわわけ)を東海へ、吉備津彦(きびつひこ)を西道へ、丹波道主命(みちぬしのみこと)を丹波へそれぞれ遣(つか)わしたという。『古事記』ではその内容に差異があって、大毘古命(おおひこのみこと)を高志(越)へ、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東方へ、日子坐命を旦波へ遣わしたとし、「四道」ではなく「三道」への派遣説話となっている。これは『古事記』の記述が、孝霊天皇の条に大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)らを吉備へ派遣したことを別に載せているためである。
このように『古事記』と『日本書紀』とでは、そのなかみに異なるところがあるけれども、彦坐王(日子坐命)は開化天皇の御子であり、丹波道主命(『古事記』では丹波比古多多須美知宇斯王=たにはのひこたたすみちうしのみこ=と書く)もやはり開化天皇の御子であった。すなわち開化天皇と和邇氏(わにうじ)の遠祖意祁都比売(おけつひめ)(『日本書紀』では姥津媛=おけつひめ)との間に生まれたのが彦坐王であり、開化天皇と近江の三上祝(みかみのはふり)がまつる天之御影(あめのみかげ)神の娘息長水依比売(おきながのみずよりひめ)との間に生まれたのが丹波道主命であると伝承する。丹波の曽我部町穴太の里に、開化天皇・彦坐王・小俣王を奉斎する小幡神社が創祀されたいわれは、丹波が開化天皇・彦坐王・丹波道主命と密接なつながりを保有していたことに由来する。
古伝承に丹波道主命がその父にあたる開化天皇を創祀したとするのも、こうした系譜伝承にもとずく。社伝によれば和銅元年(708)、丹波国司となった大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が、その霊域に社殿を建立したという。その後丹波の神徳篤き氏神また産土神(うぶすなのかみ)として尊崇をあつめ、たびたび本殿の修補がなされてきたが、現本殿は享保9年(1724)に改修されたものである。古く穴穂宮とも称されたことは正長元年(1428)の古文書にうかがわれる。江戸時代には穴太は旗本の知行地となったが、宮党(みやのとう)が組織されて祭祀の伝統は氏子のなかに連綿とうけつがれてきた。
小幡神社の創祀にゆかりのある霊域に高熊山があり、また神社の裏山には、俗称「堺塚」とよばれた竪穴式古墳が存在した。その調査報告は『考古学雑誌』(9巻の11号)に掲載されているが、直刀一、剣身一、槍身一、蓋杯二、勾玉三、臼玉五、刀子一などが出土し、東京博物館に収蔵されている。また宗教法人大本の出口王仁三郎師は、幼少のころから小幡神社を信仰し、明治31年(1898)、27才のおりの高熊山での修行は、小幡大神の神示による。円山応挙もあつく小幡大神をあがめ、応挙の父藤左衛門は応挙に命じて絵馬を描かしめ、享和3年(1803)には応挙の子応瑞がこれに装飾して奉納した。社蔵の神馬図(板地着色)がそれであり、写実様式による絵馬は珍しくその特色がよくいかされている。応挙の絵馬は全国的にも稀で、貴重な傑作である。神名稚日本根子日子大日日尊の「ワカヤマト」は新しい「ヤマト」を象徴しており、その大いなる神霊の神徳は、氏子のみならず全国崇敬者におよぶ。
昭和52年8月27日謹記

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



小幡神社

当社は、崇神天皇の命により派遣された四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波道主命が、皇祖開化天皇を主神として祀ったことに始まるといわれ、開化天皇の御子の彦坐王とその御子小俣王の三代を奉斎しています。
 また社伝等によると、和銅元年(708)に、丹波国司大神朝臣狛麻呂が霊域に社殿を建立され、延長5年(927)に編纂された『延喜式』「神名帳」にも記載された古社です。
 社蔵の棟札によると文和元年(1442)には管領細川政元の本殿造営とその後明応元年(1492)を始めとする修造、屋根葺替えが行われています。現在の社殿は、天和3年(1683)に造立された一間社流造、檜皮葺の建物です。亀岡市内で妻に二重虹梁大瓶束を用いた早い事例であり、京都府の登録文化財となっています。また、社宝として全国に三幅といわれる円山応挙の絵馬の一つが保存されています。

社頭掲示板



小幡神社

小幡神社(字穴太)社地は小幡川に沿ひ鬱蒼老樹の間に鎮座し開化天皇外二神を祀る。社伝に拠れば崇神天皇の10年道主命將軍となりて、丹波に至るや、其皇祖父開化天皇を祀り、和銅元年大神狛麻呂國守となるに及び朝命を奉じて、社殿を造替し、延喜式また本社を載録せりと云ふ。其後由緒記録古文書存せず旧観を想像するを得ざるは最も遺憾とするところなり、宝暦11年本社神主及走田神社神主等が書写したる神主代々記録一冊は近時の筆録にかかり遽かに信すべからざるも本社の沿革を稍想察するに足るべき史料たるを以て、今これに因りて其概略を記述し置くべし。
応仁の大乱以後神社寺院の所領の押領せられ、或は廃滅に帰せしもの多かりしが、本社亦守護の押領する所となりしか、永正6年4月將軍足利義尹(義植)御数書を下して守護の横暴を停止せる如く其文左の如し。
丹波國小幡神宮境地、穴太郷内東限長谷川、西限朝日山、依為毎年十五度大神事等、重役官人在所自往古以來惣テ所不勤公儀課役也、更応仁乱後無道之輩度々成違乱削■、於境地不恐神慮令忘却勅條事、大不可然、早任先例於官地雖爲向後、諸事可停止守護之椅者也
義尹卸判
永正6年4月3日
而して徳川氏に至り、慶長年代に於ける本社の境内四至は
東は小幡河幸神を限り 南は小幡川城山を限り 西は愛宕山峰濾水溝を限り 北は濾水溝御船池神明裏條通を限る
の範囲を示せり。元和年間に至り、本社神宝、什物等を散失し、又神主は其邸宅を焼失したるも京都寺社奉行の裁許によりて再び、旧観に復せる如し。而して社殿造営の棟札写を見るに、左の如く文和6年より享保9年に至るまで12通を存せし如く、殊に文和6年の棟札が果して書写の当時に完存したりとせば、古き本杜の沿革を物語るものとして貴重なるものにして、往昔より信仰の厚かりしを明証するものなるべきなり。

南桑田郡誌



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