愛宕神社
あたごじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】阿多古神社 丹波国 桑田郡鎮座

   【現社名】愛宕神社
   【住所】京都府亀岡市千歳町国分南山ノ口1
       北緯35度2分27秒、東経135度35分13秒
   【祭神】伊邪那美命 火産靈命 大国主命
   【例祭】10月24日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】継体天皇元年(512)初めて神殿が建立
       貞観6年(864)5月10日従五位下(三代実録)
       貞観14年(872)11月29日従五位上
       元慶3年(879)閏10月24日従四位下
       明治6年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「愛宕権現」と称していた
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       拝殿

   【境内社】八幡神社

初期は神籠(ヒモロギ)として祭祀されたと伝えられている。
山城国愛宕山との関係は、諸説があるが、元愛宕とも呼ばれている当社が式内社阿多古神社であろう。
現在の一間社流造りの御神殿は、鎌倉時代の建造物で、昭和52年1月28日文部大臣より重要文化財の指定を受けた。
社伝では愛宕山の愛宕神社(京都府京都市)は当社からの勧請とする。


愛宕神社

愛宕の本宮
愛宕神社御由緒
本宮御祭
   火産霊神(ほむすびのかみ)(加具突智神)
   伊邪那美神
   大国主神
鎮座地 京都府亀岡市千歳町国分南山ノロ1
當神社は、千歳連山石松山の麓にして、氏地より数十尺上の山麓に鎮座、年中鳥の聲して世の開明を告ぐ、木の問より来る清風は心身の塵を祓ひ、神秘彌増す杉の大木は沖天に高く聾え、むささびの棲生する愛宕の天狗の社として、當社の歴史がしのばれる。
當神社の創祀は遠く神代に始まり、山を神擁(ひもろぎ)として祭祀せられたと伝えられる。
人皇第26代継体天皇即位元年に初めて神殿が建立せられ、爾来信仰修験の神社として崇敬を集め、現在の一間社流造りの御神殿は、鎌倉時代の建造物で、昭和52年1月28日文部大臣より重要文化財の指定があって、防災警報機、放水機、避雷針の施設も完備されている。
特選神名牒(延喜式内社)
山陰道神五百六十座
大三十七座、小五百二十三座
丹波国七十一座
大五座小六十六座
桑田郡十九座
大二座小十七座

阿多古神社
祭神
 加具突智神
 伊邪那美神
前略、愛宕社国分村山下にあり、垂跡伊邪那美尊、火産霊尊云々。
神祇全書第二輯、神祇宝典巻第七
山陰道 丹波国 桑田郡 阿多古神社
愛宕神者 火神軻遇突智也
貞観6年5月乙未、丹波国正六位上愛當護神授従五位下。同14年11月乙未授従五位上。元慶3年閨10月庚戌授従四位下。と登載あり、爾来所を移さず、戦乱の兵火にも拘らず現在に伝えている。実に古社と言うべし。
當地は初め愛宕(おたぎ)といいしが、大化の改新以来国司制度の行なわるるに及び神社の西方氏地内の雑木林に国府が建てられ、丹波一国の制令が此の地より出されたのである。
聖武天皇天平13年国分寺が建てられてより、何時しか国分と称うるようになれり。
後烏羽天皇の文治以来制度一変して政権武門に移り、朝廷の任じたまえる国司は、その権次第に守護職の手に移り、国分寺は衰退、現在は小さく跡をとどめるのみ、當神社は何時しか両部に属する所となって、愛宕権現とも称えり。
當神社の東北に當る山上一帯を干山(ひやま)と言い、東本坊、西本坊があった、現在は東本坊の跡を、本坊の芝、西本坊の跡を、江頭山と呼ばれ雑木林となっているが昔をしのび語りつがれている。
織田、豊臣時代に別當寺として仕えた千歳町小口に岩平寺があった、永正(後柏原天皇時代)の初め香西孫六の乱に逢い焼失、その後一坊を興したが又も明智光秀の兵火にかかり焼失。
文録年間(後陽成天皇時代)にその山麓に草庵を結び東光寺として今に伝えている。
時代は古く(天武天皇時代か)當神社より御分霊を山城国(京都市北区)鷹峯に迎へ祀られた、富神社の北に當る山城国に通ずる山道より白馬に召されて、出御され、出御の際の駒の足跡と伝えられる岩石が今に残されて語りつがれている。
上賀茂、大宮、紫野、鷹峯(京都市北区)一帯を昭和7年頃まで京都府愛宕郡と呼称せしは、上賀茂神社、今宮神社の大杜があるにもかかわらず、往古その地方に於て絶大な信仰を集め、崇敬による繁栄を物語るものである。
大宝年中(文武天皇時代)役小角が雲遍上人(僧泰澄)とともに険しい手向山(京都市右京区嵯峨山)の山頂を拓き、天平元年和気清磨、藤井慶俊僧都が奉行となって社殿を造営した。和気清磨は、光仁天皇に請願して、前記當社の御分霊を鷹峯より山上に遷し祀り阿多古神社と呼称せり。なおこの分社より全国に亘り又御分霊が頒祀せられその数一千余社に及ぶ。されば當神社を愛宕の本宮、宗社と尊称せられるのもこれが所故である。
謹みて御神徳を拝するに、富神社は神前に八尺鏡を齋い奉る、火を司り給い、火防の守護神として尊崇せられ全国的に広く信仰を受けられ、その崇敬は非常なものがある。火の霊力は、水の力とともに万物の生成化育σ根源として、威大な生命力をもち日常生活に一日として欠くことのできない大切なものである。一たび大神様を粗末にすれぱ、忽ち荒振火となり家屋財産悉く灰尽となる荒神様である。常に火の扱いに心すべきで、火を扱う場所には必ず愛宕さんをお祀り申し上げ、日々大神様に感謝をささげ御守護を受けるよう努めなけれぱならない。又特に災難除け、魔除けの大神様として崇敬篤く、生後三才にして参詣すれば(愛宕の三ツ参り)一生火難、災難を免れる昔よりの信仰があり、毎年4月より5月中旬まで参詣者が絶えない。
昔より火打石の切火で穢れを祓い、災難除け、魔除けをするのも御神徳のお蔭である。
更に火を扱う商工業の守護神として、又五穀豊穣の祖神として広く崇敬せられ全国至る所に石の常夜燈籠の多いのも尊厳なる御神威と、広大無辺の御神徳によるもので厚い神仰の顕れである。常に遠隔の地からも諸願成就のため熱祷を捧げる参詣者が多い。
當地亀山藩主松平家の崇敬殊に篤く年々幣常を供進せり。
お伊勢七たび熊野へ参度愛宕さまには月まいり。

由緒書



愛宕神社(阿多古神社)

本宮御祭神 火産霊神(加具突智神)伊邪那美神 大国主神
創祀は神代と伝えられ山を神籬として祭られたが、1465年に神殿が創建され、爾来信仰修験の神社として崇敬を集め、現在の一間社流造りの御神殿は、鎌倉時代の建造物である。
国分寺の衰退により僧侶が奉仕したこともあって愛宕(おたぎ)権見とも称された。分霊が京都鷹ケ峰に祀られさらに和気清麿により嵯峨山に遷されたのを初め、全国に千余の分社があり、火を司り、火伏せ災難除けの神として家庭に祀られ、七・五・三詣でもあり、火を扱ふ業者の守護神、 五穀豊穣の祖神として全国的な崇敬を受け、俗に「伊勢に七度、熊野 へ三度、愛宕さんには月参り」といわれている。
御例祭 10月21日 鎮火祭 4月24日

社頭掲示板



愛宕神社

字国分に在り、伊弊册尊、火産霊尊、大國主命を祀り、明治6年村社に列す。社域は牛松山の麓に在りて、保津川の清流を俯瞰し形勝の地を占む。今本社の沿革由緒等は記録浬滅して明かにすることを得ざるは遺憾とする所なるが、社傅に拠れば山城葛野郡愛宕神社以前の鎮座にして元愛宕と称し、継体天皇の勘請にかかると云ふ。
神殿は鬱蒼たる老樹の間に在りて南面し、檜皮葺の一間社流造にて、梁木九尺六寸、桁行十尺六寸あり、社殿を拝するに、天井扉、向拝等多く近時の修覆にかかるものの如きも、肘木、懸魚 斗等の一部に鎌倉時代の様式の存せるを見るべく、恐らく本郡に於ける最古の古建築物なるべし。本郡には古建造物の存するもの少なく、ただ國幣中社出雲神社が鎌倉末期の造営に属し、而も荘厳によく、完存せるのみ。されば本社の如き一層其の保存の法を講すべきを感ずるものなり。而して本殿最近の修補は大正5年に竣工せるものにして、其の時除きたる古材の一部は社庫に保存せらる。地方の崇敬殊に厚く、又社殿にある狛犬一対は正徳年間の修覆になれるものの如し。

南桑田郡誌



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