安閑天皇2年5月屯倉に併設されたとしている。 「日本書紀」安閑天皇2年の条をみると、丹波国蘇斯岐(そしき)の屯倉がおかれたことが記され この(みやけ)がここに置かれたかについては諸説がある。 |
由緒 由緒の概要 創立年代不詳。ただし、安閑天皇2年5月屯倉に併設されたとしている。天正の戦乱で焼失した。延寶元年に城主の松平忠明が再建。代々城主の祈願所となり、多くの崇敬者が参拝した。明治6年村社。明治40年指定村社となる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
三宅神社 当社の創祀は不明ですが、古代大和朝廷の直轄地として経済的基盤となった屯倉に由来する神社で、平安時代の書物「延喜式神名帳」にも丹波国桑田郡十九社の内の三番社として記載された古社です。叢稲荷、草分稲荷、三宅稲荷とも呼ばれ、往古は一町四方の広大な社地を有していましたが、天正の兵乱や寛文3年(1663)等度重なる火災により徐々に社域も小さくなっていきました。かつての社域の一部は、稲荷垣内との地名も残されています。 社は延宝元年(1673)に建てられ、その後元禄11年(1698)に上屋が再建されました。また旧領主代々の祈願所でもありました。 祭神は穀物の神である倉稲魂命、稚産霊命、豊保食命の三柱が祀られています。 社頭掲示板 |
郡家と三宅 屯倉(みやけ)というのは大化改新以前に存在した 天皇の直轄地をさしており「日本書紀」安閑天皇2年の条をみると、丹波国蘇斯岐(そしき)の屯倉がおかれたことが記され この(みやけ)がここに置かれたかについては諸説がある。 郡家(ぐんけ)を古く「こおりのみやけ」と読み郡衛ともいった。郡家は今日の郡の役所と考えられ、その役所には郡庁、官舎、厨家、廐のほか十数宇の正倉が建ち郡の政治、経済の中心となった。三宅郡家説を主張する理由としては、旧山陰道の要地を占め、郡家面積としても河岸段上、方二町の平坦面がらくらくとその中におさまり、式内社三宅神社(俗に三宅稲荷)は屯倉の存在を物語るものとして古くから注目されてきた。 最近郡家の発掘報告が次々となされ、次第にそのアウトラインが浮び上ってきたので、ここ三宅の地にもやがて科学的な調査の日が近づくことも時間の問題といえよう。 社頭掲示板 |
三宅神社 三宅神社 字猪阪に鎮座し、倉稲魂命を祀る。延喜式本杜名を撰録するも、其創建等今詳かならす、又杜頭荒廃せるは惜しむべし。社伝は天正中兵火に遭ひ、天明年中再び焼失したりと云ふ。三宅は屯倉の義にして、若し日本書記記載の安閑天皇2年5月置かれたる丹波國蘇斯岐屯倉が此地なりせば或いは国府の所在地を推定する史料を供するものなれども、今俄かに断じ難し。 南桑田郡誌 |