出雲大神宮
いずもだいじんぐう 所在地 社名















   【延喜式神名帳】出雲神社(名神大) 丹波国 桑田郡鎮座

   【現社名】出雲大神宮
   【住所】京都府亀岡市千歳町出雲無番地
       北緯35度3分34秒、東経135度34分42秒
   【祭神】大国主尊 三穗津姫尊 少那姫尊
   【例祭】10月21日 例祭
   【社格】旧国幣中社 丹波国一宮
   【由緒】和銅2年(709)10月21日社殿創設
       弘仁9年(818)12月名神に預かる(日本紀略)
       承和12年(845)7月従五位下(続日本後紀)
       貞観14年(872)11月29日従四位上
       元慶4年(880)6月21日正四位下(三代実録)
       延喜10年(910)8月23日正四位上(日本紀略)
       万寿2年(1025)7月1日祈雨
       正応5年(1292)12月2日正一位(兼実日記)
       暦応4年(1341)足利尊氏に命じて守護代の濫妨を停止
       貞和元年(1345)足利尊氏造営
       文安2年(1445)造営
       弘治3年(1557)造営
       天正12年(1584)造営
       明治4年国幣中社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座と思われる

   【祭祀対象】神社東背後の千年山の中心御影山が神体山
   【祭祀】
   【公式HP】 出雲大神宮
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       拝殿・神饌所・奏樂舎・社務所

   【境内社】上の社・下の社・稲荷社・笑殿社・崇神天皇社・弁財天社
   【境内図】 境内図

島根の出雲大社は出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。『丹波国風土記』によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。即ち今の出雲大社これなり。」と記す。当宮に古来より元出雲の信仰がある。
古来より御蔭山は国常立尊の鎮座する地として禁足地とされた。現在も立ち入り可能なのは、国常立尊を祀る磐座までの参道のみである。


由緒

出雲大神宮
御祭神 当宮では二柱を合わせ特に出雲大神、出雲太神宮(日本書記)、出雲神社などと称へ奉り建国の所由によって元出雲といわれる。従って縁結びの神ということも当宮を指すのである。鎌倉時代以後婁々京師の争乱つづき広大なる神領は失われ(愛宕神社の愛宕山もその領域大原神社の小塩山は飛地社領)由緒も埋れた。兵乱のない島根半島の大社は国譲りました大国主大神御一柱を祀る慰霊の社にすぎない。そこでは60年毎にお建替へが行われるが愈竣功なると神火は丹波よりということが一般に信ぜられている。
社殿創立 現在の社殿はその様式全国第一の古重要文化財に指定されている。丹波国一之宮。延喜の制名神大社。明治之制国幣中社。宮司家には「千年の火」を伝うといわれている。粥占祭大護祭などの神事に用いられている火が特に尊ばれている所以である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



出雲大神宮由緒

当宮には大国主命とその后神三穂津姫命御二柱の御神格を併せて主宰神と称し祀り他に天津彦根命天夷鳥命を祀る。
殊に三穂津姫命は天祖高産霊尊の御女で大国主命国譲りの砌天祖の命により后神となり給う 天地結びの神即ち縁結びの由緒亦ここに発するもので俗称元出雲の所以である
日本建国は国譲りの神事に拠るところであるが丹波の国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮である
古来大平和の御神意に依り国と国人と人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤かった 崇神天皇再興の後 元明天皇和銅二年に始めて社殿を造営現社殿は鎌倉時代の建立にして(重要文化財)それ以前は御神体山の御陰山を奉斎し古来より今尚禁足の地である又御陰山は元々国常立尊の鎮まり給ひし聖地と傳えられている
(式内)名神大社、丹波国総社一之宮
(御階)正一位
(社名)正しくは出雲大神宮、千年宮、出雲神社
(摂末社)古は三十六ヶ所あったが兵火に失われ現在は上の社、黒太夫社、笑殿社、春日社、稲荷社、崇神天皇社あり
一、神宮寺 明治4年出雲極楽寺に借地移転す、現在の十一面観音菩薩像は重要文化財
一、例大祭 10月21日
一、私大祭 4月18日 当日無形文化財風流花踊奉納
一、古墳 横穴式 五世紀〜六世紀前 前方後円墳車塚古墳は当宮の口碑あり 推定は成務天皇代
一、古代の神域は愛宕山を含み飛地境内が所々にあり 京都大原野神社は飛地領なり

社頭掲示板



出雲大神宮

由緒
当宮は大国主命とその后神、三穂津姫命御二柱の御神格を併せて主祭神と称え祀り、丹波國に御鎮座なされています。(他に天津彦根命・天夷鳥命を祀るという説もあります)。
殊に三穂津姫命は天祖高皇産霊神の娘神で、大国主命国譲りの砌、天祖の命により后神となられました。
天地結びの神、即ち縁結びの由緒は叉ここに発するもので、俗称元出雲の所以であります。
日本建国は国譲りの神事に拠るところですが、丹波国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり、此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮です。
古来大平和の御神意に拠り、国と国人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤く、崇神天皇再興の後、社伝によれば元明天皇和銅2(709)年に初めて社殿を造営。
現社殿は鎌倉末期の建立にして(旧国宝・現重要文化財)それ以前は御神体山の御陰山を奉斎し、古来より今尚禁足の地であります。
又御陰山は元々国常立尊のお鎮まりになられる聖地と伝えられています。

社頭掲示板



出雲大神宮

当宮は大国主命とその后神、三穂津姫命御二柱の御神格を併せて主祭神と称え祀り、丹波國に御鎮座なされています。(他に天津彦根命・天夷鳥命を祀るという説もあります)。
殊に三穂津姫命は天祖高皇産霊神の娘神で、大国主命国譲りの砌、天祖の命により后神となられました。
天地結びの神、即ち縁結びの由緒は叉ここに発するもので、俗称元出雲の所以であります。
日本建国は国譲りの神事に拠るところですが、丹波国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり、此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮です。
古来大平和の御神意に拠り、国と国人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤く、崇神天皇再興の後、社伝によれば元明天皇和銅2(709)年に初めて社殿を造営。
現社殿は鎌倉末期の建立にして(旧国宝・現重要文化財)それ以前は御神体山の御陰山を奉斎し、古来より今尚禁足の地であります。
又御陰山は元々国常立尊のお鎮まりになられる聖地と伝えられています。
◆社名
正しくは出雲大神宮、千年宮、出雲神社
◆社殿造営
元明天皇和銅2(709)年10月21日(現在は例祭を斎行)
神階
○弘仁9(818)
 名神に預かる
 『日本紀略』弘仁9年12月乙丑条
○承和12(845)
 無位より従五位下を授けられる
 『続日本後紀』承和12年7月辛酉条
○貞観14(872)
 従四位下より従四位上
 『日本三代実録』貞観14年11月29日条
○元慶4(880)
 正四位下
 『日本三代実録』元慶4年6月21日条
○延喜10(910)
 正四位上
 『日本紀略』延喜10年7月23日条
○正応5(1292)
 正一位
 『西園寺相国実兼公日記』正応5年12月2日己丑条
◆延喜の制 名神大社
◆明治の制 国幣中社
万寿2(1025)年、日照りが続き農作物に影響が出た為、当宮の領家職西園寺家は留守所に仰せて雨乞いを祈祷せしめたところ、忽ち雨が降った(『左経記』万寿2年7月1日条)事から御神威いよいよ顕らかに、正応5(1292)年には正一位に昇る。
その間、国司巡拝の定着化を背景に、丹波国一宮となり、丹波国司や荘園本所領家の尊崇を集める。
◆摂末社
古は三十六ヶ所あったが兵火に失われ、現在は上の社、黒太夫社、笑殿社、春日社、稲荷社、崇神天皇社あり
◆神宮寺
明治4年出雲極楽寺に借地移転する。 現在の十一面観世音菩薩像は重要文化財
◆例祭
10月21日(社殿造営の由緒による)
◆私大祭
4月18日 当日無形文化財風流花踊奉納
◆古墳
横穴式 五世紀〜六世紀前、前方後円墳車塚古墳は当宮由縁の口碑あり。推定は成務天皇代

公式HP



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