かつて黒野神社は現在の鎮座地背後の山伊津岐山(通称「宮山」)の山上に祀られていた。山上には同じ式内社の「志津美神社二座」も別々の社殿に祀られていた。永享8年(1436)黒野神社・志津美神社二座を、山上は参拝に不便であるため、山麓の現在地の社小字「イツキ」に合祀した。 黒野神社の祭神一座を中央に置き、その両側に志都美神社の祭神二座を配した。 |
由緒 当神社は、村岡(旧称黒野村)の鎮守の神、氏神であり、古伝によれば、橘諸兄公ゆかりの従三位参議黒野経秀卿但馬に配流せられた大同年間に創建と伝えられ、初め現社地背後の宮山山頂に鎮座されており、延長5年に成立(927年)の延喜式神名帳に列し(式内社)、永享8年(1437年)に、同じく宮山山頂に鎮座されていた七美郷の総氏神社志都美上下神社を合祀して、社殿を現在地に移転、再建される。所謂志都美神社は、清和天皇貞観10年(869年)に従五位下の神位授与のことが、三代実録に記されている。三神社合祀後伊津岐三柱大明神と仰がれ、崇敬を集める。 鎌倉時代より神田を有し、江戸時代に入り、山名公が黒野村を村岡と改称、歴代村岡藩主の崇敬を受ける。延享元年(1744年)9月一ノ鳥居を創建して(扁額は藩主豊就公と伝える)参道を開き、明和2年(1765年藩主豊貴公)社殿再建、築地・石段が山名藩御家中並びに東西両町氏子の寄進により、整備される。以後村岡藩の祈願社として、四時社参、藩公ゆかりの品々の奉納の例が多い。 明和2年の社殿再建以後も、寛政4年(1793年)、文政4年(1822年)、嘉永3年(1851年)と社殿の改修を重ね、大正4年に拝殿新築、昭和7年に本殿を銅板屋根替えを経て、現在に至る。 明治以後、明治6年郷社に列し、大正4年神饌幣帛料供進神社に指定され、大正12年8月県社に昇格する。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
黒野神社 この神社は、平安時代創建と伝えられる延喜式内社で、村岡(旧称黒野村)の氏神社として崇敬を集め、七美の郷の総社志都美(上・下)神社を合祀して伊津岐三柱大明神と仰がれて現在に至る。 江戸時代に、歴代村岡藩主山名氏より、一藩の祈願社として殊に厚い崇敬を受け 藩主の四時社参やゆかりの品々の奉納の例が多い。 国指定重化財「十六善神像図」、貴徳面、山名藩奉納の馬具・行列道具・各種祈願絵馬等を所蔵している。 祭神は、天御中主命、天津彦火能邇邇芸命、木花咲耶姫命で、旧社格は県社。9月9日が例祭日である。村岡町 社頭掲示板 |
黒野神社 当神社は、村岡(旧称黒野村)の鎮守、氏神社であり、古伝によれば大同年間(800年代)創建と伝えられる延喜式内社で、始め現社地背後の宮山山頂に鎮座されていたが、永享8年(1436)に現在地に移転。七美郷の総氏神社で式内社の志都美上下両神社を合祀して社殿を再建、伊津岐三柱大明神と仰がれて崇敬をあつめる。 江戸時代になり村岡藩主山名氏が黒野村を村岡と改称したが、社名はそのままで、以後歴代藩主山名氏の祈願社として、四時社参、藩公ゆかりの品々の奉納の例が多い。 明治6年(1873)郷社となり、大正12年(1923)県社に列する。戦後、昭和26年(1951)宗教法人の認定を受け現在にいたる。 境内社に、山名氏創建の皇大神社、1月9・10日に恵比須祭で賑わう西宮神社、他に天満宮、金比羅宮を祭る。 所蔵文化財に非公開ながら、絹本着色釈迦十六善神、古面(貴徳面とも)、山名藩行列御道具等を所蔵している。 兵庫県神社庁 |