平内神社
ひらうちじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊伎佐神社 三座 但馬国 美含郡鎮座

   【現社名】平内神社
   【住所】兵庫県美方郡香美町香住区余部字上中2900-2
       北緯35度39分49秒  東経134度32分33秒
   【祭神】野椎神
   【例祭】10月1日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】正治2年(1200)6月創祀
       寛延3年(1750)御崎大明神と改称
       宝暦9年(1759)三宝荒神山王権現と改称
       宝暦14年(1764)3月21日造営
       安政2年(1855)6月造営
       明治6年10月村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「御崎大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       社務所

   【境内社】

集落の一番高いところに鎮座している。
当地は伊伎佐神社の旧地だったという説がある。


平内神社

百手の儀式 平内神社で毎年1月28日に行われる「百手の儀式」は、101本の矢を的にめがけて射る伝統行事で、平家の再興を矢の的に託したもの伝えられています。

社頭掲示板



平内神社

平内神社は「但馬故事記」では、人皇15代神功皇后3年(203)なので「伊伎佐神社」よりも古く、伊伎佐神社の元宮ともいえます。
平内神社がある御崎地区は平家落人伝説の残る集落です。
壇ノ浦の合戦(1185)で敗れた平家の武将達が隠岐や対馬へ逃れようとしたがシケのために因幡や但馬へ漂着。
御崎は、平家一門のうち門脇宰相平教盛を大将とし、伊賀平内左衛門家長、その子光長、矢引六郎右衛門、小宰相局など7人が流れ着き平家再興を願いながら住み着いた土地。
現在の祭神は野椎神だが社名が示す通り、本来は当地に住みついた平家の武将平教盛と伊賀平内左衛門家長の御霊荒神を祀る神社
「御崎地区活性化施設」の左手から登って行くと「平内神社」「日吉神社」方面。
山椒畑に出ると右手は「平内神社」まっすぐ奥に進むと「日吉神社」方面です。
この地にしか育たないといわれる「平家蕪(へいけかぶら)」が自生しています。
平家蕪の黄色い花、さらに桜も満開で最高の季節(四月上旬)でした。
通称名は、平内さん(へいないさん)。

香美町のパワースポット - Jimdo



平内神社

正治2年(1200)6月平教盛伊賀平内右衛門家長の霊祠を建て御霊荒神と称す。
慶長19年(1614)大阪冬の陣起り豊臣秀頼勇士を諸国に募る。御崎村門脇氏伊賀矢引氏其陣に加わりしも和睦によって帰国し翌年夏の陣起こるに及びて之に加わらんとして当社に占う。即ち凶なり。故に其の事を止むと伝う。
寛延3年(1750)受持神主笹尾佐中支配の時、御崎大明神と改称し、出石藩に届け出づ。
宝暦9年(1759)には三宝荒神山王権現と改称し受持神主の笹尾河内より出石藩に届け出づ。同14年(1764)3月21日遷宮を行い、安政2年(1855)6月平内天王の神璽を新調し本殿を再興す。
嘉永元年(1848)9月山王権現を再興して正遷宮を行い、明治6年(1873)10月村社に列す。

兵庫県神社庁



百手の儀式

平家再興願い竹矢101本放つ 香美で百手の儀式
平家の落人伝説で知られる兵庫県香美町香住区余部の御崎地区で28日、伝統行事「百手(ももて)の儀式」が営まれた。平家の再興と一年の平穏を願い、裃で正装した若者3人が、的を目掛けて101本の矢を次々と放った。
同地区には、壇ノ浦の戦い(1185年)に敗れた平家の武将が隠れ住んだという伝承が残る。百手の儀式は、武将の子孫が武術の修練を積んだのが始まりとされ、毎年集落の若い男性が射手を務める。
正装した住民らは午後3時半、集落の中心部を出発。「控え〜、控え〜、脇に寄れ〜」と声を掛けながら、氏神の平内神社まで、赤いのぼりが立ち並ぶ急斜面を練り歩いた。
今年の射手は同町職員の男性(29)、会社員の男性(20)、香住第一中学校1年の男子生徒(13)。境内の石垣の上から、約5メートル先のご神木に据えられた的に向けて竹の矢を射た。見事、的を射抜くと、見守っていた住民やアマチュア写真家らがうれしそうに「おお」と声を上げていた。
初めて射手を務めた男子生徒は「ずっとやってみたいと思っていたけど、実際にやると難しかった」と苦笑。儀式はかつて、源氏の武将の目を描いた絵を的に使うなど、平家の再興を期す色合いが今より強かったという。矢があまり的に当たらなかった男性は「源氏には今年も勝てなさそうです…」と唇をかんだ。(黒川裕生)

神戸新聞NEXT 2018/1/29



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