鷹野神社
たかのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鷹野神社 但馬国 美含郡鎮座

   【現社名】鷹野神社
   【住所】兵庫県豊岡市竹野町竹野馬場町84-1
       北緯35度39分36秒  東経134度45分47秒
   【祭神】武甕槌神 (配祀)天穗日命 天満大自在天神
       (合祀)須佐之男命 建御雷命 伊波比主命 五男三女神

   【例祭】4月25日 春季例祭 11月3日 秋季例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】応永3年(1396)社領内替地
       万治3年(1660)社殿焼失
       天明年間にも社殿焼失
       明治6年10月郷社
       大正3年3月25日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】竹野別氏
   【鎮座地】もとは現鎮座地社の西方約400mにあった
        その後現在の地に

   【祭祀対象】本来は竹野別氏族の祖を祀る
   【祭祀】江戸時代は「加島宮天神」「浜坂天神」と称していた
   【社殿】本殿皇子造
       幣殿・拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】稻荷神社・山神社・貴布神社・地神社・船魂神社・西宮大神社

この地は但馬国造とされる竹別(竹野別)の居地であつた。
もとは現鎮座地社の西方約400mの竹野浜と砂洲によつて連接された小島(賀島山=猫崎)との接合点にあつたものとされている。
江戸時代には、武門の信仰が篤く、豊岡・出石藩の歴代藩主が武運長久を祈願するため参拝した。竹野は北前船の寄港地であったこともあり、当時の船頭たちが奉納した船絵馬や日和見や入船の連絡に使われた方角石が残る。


由緒

当神社の創立年月については不詳であるが、古事記によると第4代懿徳天皇の第2皇子当芸志比古命は多遅麻の竹別の祖と記されている。多遅麻之竹別については和名類聚抄(略して和名抄二十巻)には「但馬国美含郡竹野郷がある」と書かれている。和名抄は延長年中に源順が醍醐天皇の第4皇女勤子内親王の命を奉じて撰述した古書であり、竹野別はたかの別とよんだのであり但馬国には竹という地名はその他の文書に見えないから現在の竹野浜部落で、その氏族が居住していたための地名であると考えることができる。同じく醍醐天皇の延長5年に「延喜式」神名帳が撰修せられ、その巻一〇に「但馬国131座、美含郡12座鷹野神社」とあるから、延喜の制に小社に列せられた式内官社である。
御祭神については、「神名帳考証」「但馬式社改納帳」「旧事本記」「神祇志料」「特選神名帳」「但馬考」等には諸説がのせられているが武甕槌神を御祭神として奉斎しているのであって、社家大浜家の伝承にも竹野は「たかの」と言い、古来より加島宮天神、浜の天神と称して、武甕槌神を天つ神、即ち天孫系神族として尊崇し御神威をあがめて、出雲系神族を制御するため鎮祭されたと伝えている。古事記によると大国主神が出雲国の伊那佐の小浜における国譲りの折衝に天孫系神族の代表としてその使者に選ばれた武甕槌神が大国主神との談判が成立の後、出雲系神族に対して御神威を示され、天孫神系の神に帰一することを誓約されているから、武甕槌神はこの竹野郷に神降りまし居住民族が祖神当芸志比古命も天孫神系の神であるため氏神として奉斎するに至ったと考えられる。武甕槌神は鹿島神社の主祭神として鎮護されたため、神降りましたと伝えられる所が神の誕生浦といい、鹿島の神である武甕槌神を鎮祭した島を加島山と称したと伝えられている。後に竹野浜即ち現在位置に移されたといわれている。
なお国譲りの談判成立後大国主神は八十隈にかくれられ、天穂日命によって大国主神の大前を祀らしめられたという古事記の記事により天穂日命が出雲系神族の代表として併せて相殿に奉斎されたものと考えられる。その後中古に至り、菅原道真公の怨霊を怖れて全国各地に天満宮が鎮祭され、天満宮が鎮祭され、天満宮信仰が広まったため、天神と天満宮とを混同する風が生じたため、天満天神の御神徳もあがめて相殿に奉斎し、神紋も梅鉢を用い、境内に牛の像を奉献したものと考えられる。但馬考は「笑うべきことだ」と記している。或は当芸志比古命を祖神とする竹野別の氏族が後に竹野郷に移住してきたが、すでに原住民によって武甕槌神が鎮祭されていたため、鷹野神社から少し離れた初日(宇日)の丘に当芸志比古命の同一神族である宇比売神を奉斎して宇日神社とし、鷹野神社の別宮としたと考えられる。
祖神を氏神としないで、天孫神族の代表として武甕槌神を氏神として鎮祭したという伝承もある。
万治3年に社殿より火を失して社殿はもとより全部落失し、その時社記、古記録を失ってその資料の微すべきものがないが寛延2年刊行の大枝流芳の「貝尽浦の錦」には竹野浜を紀伊の和歌の浦、河内の住吉浦と共に日本浜三景の一つに数えられ、但馬竹野浦真図をのせて、その図に「加島」「誕生」と共に竹野浜に「天神社」の壮大な社殿をえがいている。
江戸時代出石藩の崇敬特に篤く、山名、小出の藩主は度々参拝して随神門、鳥居が奉献され、武運長久を祈請された記録が残っている。
明治6年社格の制定と共に郷社に列せられ、明治37年に当部落に鎮祭されていた三柱神社、荒神社を合併して、その祭神を併せて奉斎している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



鷹野神社

御祭神
主祭神 武甕槌神
相殿神 天穂日命
    天満大自在天神(菅原道真公)
神社合併による御祭神
須佐之男命  建御雷神
伊波比主命  五男三女神
御由緒
当社は延喜式神名帳に載っている古社である。御祭神については武甕槌神(天つ神)を天孫系神族として尊崇し、御神威をあがめて出雲系神族(国つ神)を制御するため鎮祭されたと伝えられている。
後世にいたり菅原道真公の怨霊を恐れるとともにその卓越した文徳をあがめ、文道の神として天神信仰が広がった。
当社も道真公を相殿に奉斎し、ご神紋も梅鉢を用い、浜の天神さんとして親しまれている。

社頭掲示板



鷹野神社

創立年不詳。
古事記によると第4代懿徳天皇の第二皇子当芸志比古命は多遅麻の竹別の祖と記され、多遅麻之竹別については和名類聚抄には「但馬国美含郡竹野郷がある」と書かれる。和名抄は延長年中に源順が醍醐天皇の第四皇女勤子内親王の命を奉じて撰述した古書であり、竹野別はたかの別とよんだのであり但馬国には竹という地名はその他の文書に見えないから現在の竹野浜部落で、その氏族が居住していたための地名であると考えることができる。
同じく醍醐天皇の延長5年(927)に「延喜式」神名帳が撰修せられ、その巻10に「但馬国一三一座、美含郡一二座鷹野神社」とあるから、延喜の制に小社に列せられた式内官社である。
万治3年(1660)、社殿より失火し、社記、古記録を焼失するが、寛延2年(1749)刊行の大枝流芳の「貝尽浦の錦」には竹野浜を紀伊の和歌の浦、河内の住吉浦と共に日本浜三景の一つに数えられ、但馬竹野浦真図をのせて、その図に「加島」「誕生」と共に竹野浜に「天神社」の壮大な社殿をえがいている。
江戸時代出石藩の崇敬篤く、藩主度々参拝し随神門、鳥居が奉献。

兵庫県神社庁



鷹野神社

江戸時代には、武門の信仰が篤く、豊岡・出石藩の歴代藩主が武運長久を祈願するため参拝した。竹野は北前船の寄港地であったこともあり、当時の船頭たちが奉納した船絵馬や日和見や入船の連絡に使われた方角石が残る。地元の人は親しみを込め、「浜の天神さん」と呼んでいる。
古くは加島宮と呼ばれ、賀嶋山に鎮座していましたが、中古現在地に移りました。誕生の浦に上陸して加島宮の祭神となった「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」は、この社の主祭神です。

豊岡市商工会竹野支所



鷹野神社

創建時不詳だが、延喜式神名帳に載っている古社。祭神は武甕槌神で出雲系神族を制御するために鎮祭されたらしい。古事記にあるように、天つ神が国つ神(出雲)に国譲りをせまった記述を彷彿させてくれる伝承がこの地域には残っているのであろう。比較的新しい拝殿の中には、北前船の絵馬があるが、絵ではなくて木製の優品でこれを「作り出し絵馬」と言う。北前船で繁栄した所ゆえ、ここには宮大工、彫り物師が多くいたらしい。冬の海風を避けるため、本殿がすっぽり覆われている。
 少し薄暗いが、向背に左下向きの垢抜けした竜が目に入る。真ん中の宝珠を掴み、目が鮮やかで躍動的だ。木鼻には口に木の玉を含んだ唐獅子、獏もいる。また肘木鼻には足が馬で頭の天辺に角が生えている勢いのよい麒麟が目に入る。そのすぐ下には、波と戯れる海鳥、松の木の間で遊ぶ山鳥がいる。6代目、中井権次橘正貞の優品である。

丹波新聞社2015年11月12日



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