式内社(名神大社)海神社と比定されている。 |
由緒 應神天皇3年4月、大山守命が山海の政を執られた時、大山守命は多遅麻黄沼前県主武身主命の子海部直命に多遅麻の海政を執らし、その姓を海部直と称することを許した。その時、海部直命は、自分の始祖天火明命を黄沼前県に祀り清明宮と称した。仁徳天皇10年8月、海部直命は城崎郡司を兼ねる事となり、黄沼県を海部村(小島)に置き、多遅麻の海人を領し、清明宮を海部村に属する絹巻山に移し絹巻神社と称した。履中天皇の御代、海部直部の子西刀宿禰が城崎郡司となり、宿禰に命じ瀬戸の水門の浚渫を行った。爾来、円山川沿岸は洪水禍をまぬがれたと伝えられている。 仁明天皇仁和元年神階従五位下を賜り、文化11年現在の本殿を再建した。 絹巻山は天然記念物の指定をうけ「ひめはるぜみ」の生息地として奈良の春日山と共に知られている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
絹巻神社 應神天皇3年4月、大山守命が山海の政を執られた時、大山守命は多遅麻黄沼前県主武身主命の子海部直命に多遅麻の海政を執らし、その姓を海部直と称することを許した。その時、海部直命は、自分の始祖天火明命を黄沼前県に祀り清明宮と称した。 仁徳天皇10年8月、海部直命は城崎郡司を兼ねる事となり、黄沼県を海部村(小島)に置き、多遅麻の海人を領し、清明宮を海部村に属する絹巻山に移し絹巻神社と称した。履中天皇の御代、海部直部の子西刀宿禰が城崎郡司となり、宿禰に命じ瀬戸の水門の浚渫を行った。爾来、円山川沿岸は洪水禍をまぬがれたと伝えられている。 仁明天皇仁和元年(885)神階従五位下を賜り、文化11年現在の本殿を再建した。 絹巻山は天然記念物の指定をうけ「ひめはるぜみ」の生息地として奈良の春日山と共に知られている。 兵庫県神社庁 |
絹巻神社 本殿再建200年 豊岡・絹巻神社で式年祭 但馬五社に数えられる兵庫県豊岡市気比の絹巻神社(花光亮宮司)で23日、本殿の再建200年に合わせた式年祭があった。近くの気比神社のみこしやだんじりが節目を祝って初めて訪れ、練り合わせやだんじり太鼓を奉納。同市・港地区の住民ら約700人が見守った。 絹巻神社の本殿は、1814(文化11)年に焼失、再建されて17年9月23日に神様が戻った、との記録が同神社に残っている。式年祭は初めてで、約1年前に氏子たちが実行委員会(前場芳幸委員長)をつくって準備してきた。氏子は港地区だけでなく、同市城崎町や日高町の一部にもおり、3地区を代表して気比神社の神様らが絹巻神社にお祝いに訪れるとの物語も創作した。 神戸新聞NEXT 2017/9/23 |
絹巻神社 人皇五十四代仁明天皇の承和9年(842)10月官社に預かる。(続日本紀曰く、但馬国城崎郡海神社預官社) 清和天皇貞観10年(869)10月27日、従五位上を授けられる。しかるに58代光孝天皇の仁和元年(885)2月10日、但馬国正六位上絹巻神社五位下を授けらるとあり。ここにおいて、海神社と絹巻神社と両立して、各別に取り扱われしが、その実は一つなり。 これ実に当時の国守の誤りて、絹巻神、元の名海神社と云うを別社と心得て、絹巻神は未載公簿として奏上したるに因るなり。爾来(ジライ)絹巻神社神主は、海神社絹巻神社大明神と尊称して奉仕すといえども、史に海神社と絹巻神社と各別に両立せしめたるをもって、何人も疑いを抱くと、一つは通称を絹巻神と云うに依り、遂に海神社の所在に疑惑を生じたるなり。 絹巻神社縁起 |