酒垂神社
さかたるじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】酒垂神社 但馬国 城崎郡鎮座

   【現社名】酒垂神社
   【住所】兵庫県豊岡市法花寺725
       北緯35度33分20秒、東経134度52分11秒
   【祭神】酒美津男命 酒美津女命
   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】白鳳3年(675)創祀
       貞観3年(861)従五位上
       文安元年(1444)遷宮
       宝永6-8年(1709−11)本殿修理
       明治6年10月村社
       大正7年6月15日に神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】本来は酒造神
   【祭祀】江戸時代は「大藏大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造柿葺 昭和33年5月14日指定 重要文化財
       拝殿

   【境内社】稻荷社・山神社・八幡神社

白鳳3年(675)夏、この地方を治めていた郡司・物部韓国連久々比命が贄田(神供用の稲を穫る田)に酒所を定め、そこに酒解子神ら三柱の酒造神を祀つて醸酒し、これを祖神に供ヘて五穀豊穣を祈願したという、その神齊殿がこの神社の発祥であるとする。
文安元年(1444年)に遷宮が斎行されているが、その遷宮が他所からの遷座か否かは不明。
境内入り口である鳥居の足下左右に甕(かめ)石があり、これは酒を汲み入れる瓶を指すという。


由緒

酒垂神社は、いわゆる式内社で起源も古く、物部韓国連久々比命が、五穀豊穣を祈って酒造神、酒弥豆男命(さかみずおのみこと)を祀ったとされる。境内に隣接して酒米を作った神田があり、酒造用水として、奥の谷あいにわく清水を使っていた。明治以降自由な酒造が禁止されてから氏子らは、手作りの甘酒を供えている。
この神社の名が一般に知られるようになったのは、30余年前、専門家の調査で、本殿が室町時代の建造物とわかり、昭和33年に国の重文に指定されたことから。その後、全国的な解体修理が行われた。その際、永享10年(1438年)の棟札が見つかったほか「大伴久清、小工十二人」と書きつけたものもあった。創建時の棟りょうの名がわかることは比較的珍しいケースという。そんな記述から、当時資金を工面しながら十数年がかりで建てた様子などがうかがえる。
こけらぶきの本殿は、鮮やかな朱塗りが修理の跡を物語るが、すっぽりと覆い家の中に収まり、古社建築を楽しむにはちょっとじゃまになる。だが折からの強い秋雨を見て、この囲いがあったからこそ、本殿も数百年の風雪に耐えてきたのか、と変に納得させられた。冬の豪雪は折り紙つきなのだから。様式は一間社流れ造り。数キロ離れた中嶋神社が二間社、久々比神社が三間社で、同じころ相次いで建てられたらしく、いずれも国指定の重文である。
境内では、かつて村芝居が行われたり、北但酒造組合が利き酒会を開いたり、にぎわうこともあったが、今では秋祭りぐらいという。それでも、杜氏(とうじ)さんが酒の神様を拝みに来たり、研究家が訪れたり、幼稚園児が小遠足で弁当を広げたりの光景も見られる。
境内入り口の左右に瓶(かめ)石がある。酒をくみ入れる瓶を指すようだが、一方は大杉を切った跡から見つかった。以前に調査した学者が「杉の下にある」との予言通りとなった。棟札もさることながら、まだ眠っているものがあるのでは、と境内を見渡しながら想像を刺激される。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



酒垂神社

酒垂神社は杜氏の祖神酒造司の守護神である酒彌豆男命・酒彌豆女命を祀る社である。
神社の創立は今から1300年の昔この地方を治めていた郡司物部韓国連久久比命が贄田に酒所を定めて醸酒した砌・酒解子神等酒造神3柱を祀ったのが発祥であると伝えられている。延長5年(927)勅旨によって制定された延喜制神明式には但馬城崎郡21座の一つに酒垂神社の名が誌され古くから朝野において崇敬された由緒ある神社である。

社頭掲示板



酒垂神社

「重要文化財(建造物)酒垂神社本殿略記 (昭和33年5月14日指定一間杜流造りこけら葺き)」
酒垂神社は杜氏の祖神・酒造司の守護神である酒彌豆男命(大藏大明神)酒彌豆女命を祀る社である。
神社の創立については詳らかでないが、一説には白鳳3年(675)の夏、この地方を治めてゐた郡司・物部韓國連久々比命が贄田に酒所を定め、そこに酒解子神ら三柱の酒造神を祀つて醸酒し、これを祖神に供ヘて五穀豊穣を祈願したといふ、その神齊殿がこの神社の発祥であると傳へられる。
現在の本殿は社藏の棟札によつて永享10年(1438)に釿始めの後、嘉吉元年(1441)柱立て、文安元年(1444)に遷宮を行なつたことが知られてゐたが、このたびの解体修理中に蟇股から墨書が発見され、それによると、これら蟇股など細部の造営はその後も引続いて行なはれ、完成したのは釿始めから11年を経た宝徳元年(1449)頃であることが判明した。なほこの時、造営にあたつた大工は伴大夫大伴久清と棟札に記されてゐる。
本殿はその後、宝永6-8年(1709−11)軒桁以上を解体して修理が行なはれ、柱、破風板など軒廻りはすベて改変をうけ、庇は柱や紅梁が取替ヘられ、縁廻社りや身舎の柱間装置も改修があつた。またこの時、本殿・覆屋の新設がなされたため本殿の屋根は化粧屋根まで組立てゝ小屋を省略し、軒付けの『こけら』を積んだだけが形式的に付せられてゐるといふ特殊な形態を改められてゐた。
また文政6年(1823)に覆屋の造替、大正2年に内外陣の天井および外陣床の補修が行なはれ、背面床下の柱間装置も中途で三度の改変がなされるなどの変遷を経て今日におよんでゐた。
近年にいたり、この建物について各方面からの調査が行なはれた結果、建立年代等が明確であるとともにその意匠も細部にいたるまで優れたものであることを認められ、建築史上の償値が高いものとして文化財保護委員會から重要文化財として指定がなされ、棟札も同時に附指定をうけた。
しかし本殿も漸次荒廃が著しくなつたため、昭和43年10月から翌年12月にかけて文化庁の指導のもとに解体修理が施行された。その際、身舎についてはほゞ旧規が解明されて、軒廻り・柱間装置・天井などは建立當初の形式に復され、旧部材の残存しなかつた庇や縁廻りは江戸時代に改修された形のまゝであるが、欠失してゐた屋根は復旧して室町時代の容姿に整備された。
また覆屋も本殿の修理と同時に改築が行なはれた。

社頭掲示板



酒垂神社

祭神
酒垂神社は杜氏の祖神・酒造司の守護神である酒弥豆男命(大蔵大明神)酒弥豆女命を祀る社である。
神社の発祥
白鳳3年(675)の夏、この地方を治めていた郡司物部韓国連久々比命が贄田(神に供える米を穫る田)に酒所をつくり、酒解子神・大解子神・子解子神の酒造神を祀って酒を醸造し、これを祖神に供えて五穀豊穣を祈願したという伝説があり、その時の斎殿が酒垂神社の発祥であると云われている(国史文書による)。
式内社
勅旨、天子のご意志によって延長5年(927)に制定された延喜式・神名式の内に但馬国城崎郡廿一座のうち小廿座の一つとして酒垂神社が誌されており、いわゆる式内社として当地方では古くから崇敬された由緒ある神社である。

社頭掲示板



酒垂神社

重要文化財 酒垂神社本殿 畧記
 酒垂神社は杜氏の祖神酒造司の守護神である酒弥豆男命・酒弥豆女命(大蔵大明神)を祀る社である。
 神社の創立は今から千三百年の昔この地方を治めていた郡司物部韓国連久々比命が贄田に酒所を定めて醸酒した砌、酒解子神等酒造神三柱を祀ったのが発祥であると伝えられている。延長5年(927)勅旨によって制定された延喜制神明式には但馬城崎郡廿一座の一つに酒垂神社の名が誌され(式内社と云う)、古くから朝野において崇敬された由緒ある神社である。
 今の本殿は社蔵の棟札によると永享10年(一四三八)釿始・嘉吉元年(1441)柱立・文安元年(1444)遷宮・造営の大工は伴大夫大伴久清で蟇股にはこの時の墨書も誌されている。建物は一間社流造こけら葺で、木割の太い柱に三ツ斗組をのせ、中備えは半肉彫の蟇股を飾り、妻組は虹梁大瓶束を組む。これらの建築細部技法は当時の建築様式の特徴を示す優れたもので、殊に建立年代や工匠名が明確であり、建築史上価値の高い神社建築遺構として昭和33年5月に国の重要文化財指定をうけ、棟札も附指定された。
 本殿は江戸中期の大改造によって形態が改変され覆屋に囲われていたが、昭和43年から翌44年にかけて文化庁指導のもとに解体修理があり、その際の調査で身舎は旧規がほゞ解明され、軒廻り、柱間装置、天井などは建立当初の形式に復された。しかし旧部材の残存しなかった庇や縁廻りは江戸中期の改修等による形を踏襲して修理されたが、欠失していた屋根を復し、全般には室町時代の容姿に復旧整備された。
 覆屋も本殿の修理を同時に改築された。

社頭石碑



酒垂神社

酒垂神社は、いわゆる式内社で起源も古く、物部韓国連久々比命が、五穀豊穣を祈って酒造神、酒弥豆男命(さかみずおのみこと)を祀ったとされる。境内に隣接して酒米を作った神田があり、酒造用水として、奥の谷あいにわく清水を使っていた。明治以降自由な酒造が禁止されてから氏子らは、手作りの甘酒を供えている。
本殿は室町時代の建造物で、昭和33年(1958)に国の重文に指定された。その後の解体修理で、永享10年(1438)の棟札が見つかったほか「大伴久清、小工12人」と書きつけたものもあった。創建時の棟梁の名がわかることは比較的珍しいケースという。
こけらぶきの本殿は、鮮やかな朱塗りが修理の跡を物語るが、すっぽりと覆い家の中に収まり、古社建築を楽しむにはちょっとじゃまになる。だが折からの強い秋雨を見て、この囲いがあったからこそ、本殿も数百年の風雪に耐えてきた。様式は一間社流れ造り。
境内入り口の左右に瓶(かめ)石がある。酒をくみ入れる瓶を指すようだが、一方は大杉を切った跡から見つかった。

兵庫県神社庁



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