小田井県神社
おだいあがたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】県神社 但馬国 城崎郡鎮座

   【現社名】小田井県神社
   【住所】兵庫県豊岡市小田井町15-6
       北緯35度33分1秒、東経134度49分25秒
   【祭神】国作大己貴命
       宇麻志摩遅命『神名帳考証』

   【例祭】10月15日 秋の例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇11年(前86年)3月14日一社を創立
       神功皇后摂政3年大海童神を下座に配祀
       白鳳3年(674)6月大旱に物部韓国連久々比祈雨
       承和9年(842)10月官社
       仁寿元年(851)7月27日正六位
       貞観10年(868)12月27日従五位上
       元弘3年(1333)夏正一位
       天正3年(1575)10月野田合戦の際焼失
       天正年中(1573−91)秀吉当社に陣営をおき神領を没収
       貞享年中(1684-87)社殿再興
       元文年中(1736-40)造営
       明治6年10月県社
       昭和6年(1930年)円山川治水工事のため現位置に移転

   【関係氏族】小田井県主
   【鎮座地】大きな移転の記録はない
        昭和6年(1930年)円山川治水工事のため現位置に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「小田井大明神」と称していた
   【社殿】本殿王子造檜皮葺
       幣殿・拝殿・社務所・神輿庫・御手洗舎

   【境内社】恵比須神社・柳宮神社・川下神社

丹波道主命勅を奉じて崇神天皇11年(前86年)3月14四日一社を創立して大己貴命及び天火明命を祭祀せらる。神功皇后摂政3年新羅征伐の際、小田井県主勅を奉じて大海童神を當社の下座に配祀という。
中世社領13町3反あまり、神供田25町1反あまりと見え、社家4家、供僧4ケ寺(金剛、妙樂、正法、三坂)と共に祭事を執行(神仏習合)、祠域宏壮、祠宇雄麗にして社運隆盛を極めたと伝承されている。
昭和3年円山川治水工事のため老木欝蒼とした境内地をあとに小田井町東南部に移転。


由緒

小田井縣神社は、延喜式神名帳(905年)に記されている。いわゆる式内神社であって、ご祭神は国作大己貴命であります。大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。第10代崇神天皇の御代(前86年)の11年甲午春の3月10日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。
弘安年中(1278年〜87年)時の守護、太田政頼の注進による但馬太田文には、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりと見えており、この時代には神仏習合となり。社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行なっていたようです。 元弘3年(1333年)癸酉の夏第95代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めたと伝えられています。
天正3年(1575年)10月、垣矢筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰となりました。この時ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたといわれています。天正年中(1573年〜91年)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されました。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微しました。
貞享年中(1684年〜87年)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(1736年〜40年)神殿を改造しました。現今の春日作の社殿がそれであります。
明治6年(1873年)社格が定められ県社に列しました。
明治11年(1878年)とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古しました。
昭和6年(1930年)円山川治水工事のため現位置に移転し、約40年後の昭和44年(1969年)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。
昭和25年(1950年)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



小田井縣神社

小田井縣神社は、延喜式神名帳に記されている。いわゆる式内神社であって、ご祭神は国作大己貴命であります。大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。第10代崇神天皇の御代(前86)の11年甲午春の3月10日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。
昭和6年(1931)円山川治水工事のため現位置に移転し、約40年後の昭和44年(1969)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。
昭和25年(1950)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。
小田縣神社の末社に「柳ノ宮神社」があり、毎年8月1日〜2日に「豊岡柳祭り」が行われる。豊岡市市街地域の最大のお祭りである。
豊岡市の現在の地場産業は「鞄」であるが、昔は「柳行李」であった。昭和11年(1936)、柳行李産業の発展・恩恵に感謝し、当時、柳行李の材料「こり柳」産地に在った「藤森神社」の社殿を新築、「柳ノ宮神社」と改称した。これを機に「豊岡柳祭り」が創始された。
「豊岡柳祭り」は8月1日、午後4時から柳ノ宮神社で神事の後、神輿は幼稚園児たちに引かれ豊岡駅まで巡行する。午後7時、神輿は約百名の担手により、大通りを練り歩き、本社に還幸する。2日、大花火大会あり。

兵庫県神社庁



小田井縣神社由緒ならびに事蹟のあらまし

小田井縣神社は、延喜式神名帳(905年)に記されている式内神社で但馬で古くからあって、ご祭神は国作大己貴命であります。
大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。
第十代崇神天皇の御代(前86年)の11年甲午春の三月十日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につとめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。
弘安年中(1278年〜1287年)時の守護、太田政頼の注進による但馬太田文には、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりと見えており、この時代には神仏習合となり。社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行なっていたようです。
元弘3年(1333年)癸酉の夏第九十五代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めたと伝えられています。
天正3年(1575年)10月、垣屋筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰となりました。この時ご神霊はみこしで隣の一日市(ひといち)に火難を避けられたといわれています。
天正年中(1573年〜1591年)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されました。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微したといわれています。
貞享年中(1684年〜1687年)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(1736年〜1740年)神殿を改造しました。現今の春日造の社殿がそれであります。
明治6年(1873年)社格が定められ県社に列しました。
明治11年(1878年)とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古しました。
昭和6年(1930年)円山川治水工事のため現位置に移転し、約四十年後の昭和44年(1969年)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神社、川下神社、社務所の改築を行ないました。
昭和25年(1950年)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。

由緒書



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