日本で唯一、コウノトリに縁のある神社。コウノトリの親鳥とひなを描いた絵馬が多く奉納されている。 日本書紀によれば崇仁天皇23年、天湯河板挙命に勅して鵠(こうのとり)を捕えさせようとした。そこで鵠の飛ぶ方を追つて出雲国で捕えたと、但馬国で捕えたともいい、天湯河板挙命が鳥取造の姓を賜つたのはこの功績によるものだとされる。このことにより鵠にちなんで久久比神社の名となった。 |
由緒 創立年月は不詳であるが、延喜の制では、式内社、城崎郡二十一座の内、小社に列している古社である。 垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年三十歳になっても物を言われなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。命はこれを追って、但馬国で捕え、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考えられる。 古来、森林守護の名社として名高く、また、下宮、鎌田、庄境、中庄境、栄町、祥雲寺の六部落の氏神として崇敬を集めている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
久々比神社 久々比神社は、延喜神名式に記される但馬国城崎郡21座の内の小社で、もと宗像大名神と称され木の神久久遅命を奉祀した式内社であるが、神社の創立年代は詳らかでない、一説には、天湯川板挙げ命を祀るといわれる。末社には八幡社(事代主命)、三柱社(少彦名命)、稲荷社(保食神)の三社がある。 本殿は墨書によって永正4年(1507年)に再建されたものであることが知られ、三間社流造り・?葺の構成様式で建物の構造細部技法・絵様刳型等も室町時代中期の代表的様式を示している。社殿の全容は近隣に於ける屈指の臣社にして正に秀麗、特に蟇股の彫刻がすぐれ東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻されている。さらに斗・肘木・龍鳳象獅の彫刻など他に比類なく、その道の推賞のまとである。 久久比神社の鎮座する下宮は昔より鵠(くくい:コウノトリの古称)村と言われていたように、古来より国の特別天然記念物「コウノトリ」が数多く大空を舞っていた地域であり、日本書紀によれば天湯河拳命がこの地で「コウノトリ」を捕まえたと言う説が伝わる。 社頭掲示板 |
久々比神社 久々遅(くぐち)命を祭神しているが一説には天湯河板挙命を祀るともいう。 この神社はコウノトリにも関係のある神社である。 造営の棟札が残っていないので、はっきりした時代はわからないが酒垂神社が造られてからわずかに時代が下った頃の建物と推定される室町末期のもの。 三間社流造という建物構造で国の重要文化財に指定されています。中嶋神社・酒垂神社のような優麗さはなく、雄健な手法を残している。正徳元年(1711年)の修理は、身舎の外陣(げじん)を高めたため、外廻りに変動があったが、全体の姿態にはほとんど変化がなく、造営当時の主要部はよく残されている。 http://www.inaker.or.jp/~toyokan/kukuhi/kukuhi.html |
久々比神社 久々比神社とは 久々比神社が鎮座される兵庫県豊岡市下宮地区は、昔よりくくい村(コウノトリの古称)と言われており、古来より「コウノトリ」が数多く大空を舞っていた地域です。 日本書紀によれば天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)のコウノトリ伝説が残っています。 但馬国城崎郡二十一座のうちの小社で、現在の本殿は永正四年(1507年)に再建されたものであることが知られ、室町時代中期の代表的様式を示した歴史ある神社です。 コウノトリ伝説 日本書記によれば、垂仁天皇が誉津別皇子(ほむつわけのおうじ)をともない宮殿の前に立たれた時、くくい(コウノトリの古称)が大空を飛んでいきました。 その時、皇子が「これは何という名の鳥だ」と言葉を発せられました。 皇子は三十歳であったが、この時まで言葉を話すことができず、この日初めて人並みの言葉をお話になられました。 これに天皇は大変喜ばれ、「誰かあの鳥を捕まえて献上せよ」という指示に、天湯河板挙(あめのゆかわのたな)が「私が必ず捕らえて献上します」と申し出て、大鳥が飛び行く国々を追いかけたそうです。 そして出雲国か但馬国で捕らえ献上したといわれます。 このことから「コウノトリ」は霊鳥と大切にされ、その鳥が棲んでいる土地を久々比(くくひ)と呼び、神社を建て、木の神「久々遅命」をお祀りし、これが久々比神社となりました。 公式HP |
久々比神社 創立年月は不詳であるが、延喜の制では、式内社、城崎郡21座の内、小社に列している古社である。 垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年30歳になっても物を言われなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。命はこれを追って、但馬国で捕え、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考えられる。 古来、森林守護の名社として名高く、また、下宮、鎌田、庄境、中庄境、栄町、祥雲寺の六部落の氏神として崇敬を集めている。 鵠とは「くぐい」と読み、ハクチョウの古称。 兵庫県神社庁 |
久久比神社本殿 重要文化財(建造物)久久比神社本殿略記 昭和33年5月14日指定 三間社流造りこけら葺き 久久比神社は、延喜神名式に記される但馬国城崎郡廿一座のうちの小社で、もと胸形(宗像)大名神と称され木の神久久遅命を奉祀した式内社であるが、神社の創立年代は詳らかでない、一説には、天湯河板挙命をしるといわれる。この度解体修理昭和46年1月1日よリ昭和47年3月31日)により現在の本殿は、背面西の間から発見された墨書「永正2年丁卯3月1日)、けんと名人作也」によって永正4年(1507年)に再建されたものであることが知られ、三間社流造りこけら葺きの構成形式で建物の構造細部技法、絵様刳型等も、室町時代中期の代表的形式を示している。 特に蟇股の彫刻が優れ、東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻されている。棟札および墨書によると元禄15年(1702年)に向拝および縁回りの修理・正徳元年(1712年)にも修理が行われている。 近時の修理としては昭和9年に屋根替えがあり、昭和23年にはこけら葺の上亜鉛引鋼板を葺き重ねた応急修理をしていた。 (解体修理の大要) 1.礎石は一旦掘起し破損しているものは取換、コンクリート打の上え旧位置に据え直し根巻コンクリート補強が施された。 2.古材は極力再用し旧部材は原則として旧位置に戻された。 3.総べて木材には防腐処理と蟻害の予防処理が施された。 4.各新補材は、欅・桧等を使用し、それぞれ修理の念が烙印された。 5.亜鉛引鉄板葺きの屋根がこけら葺きに復元された。 6.飾金具は材料・工法共に残存のものに倣い不足分は新しく補い損傷している部分は補修された。 社頭掲示板 |