女代神社
めしろじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】女代神社 但馬国 城崎郡鎮座

   【現社名】女代神社
   【住所】兵庫県豊岡市九日市上町460-1
       北緯35度31分3秒、東経134度49分10秒
   【祭神】高皇産靈神
       豊宇気姫尊『校補但馬考』『神名帳考証』

   【例祭】10月14日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代は不詳
       仁寿元年(851)正月正六位
       天正2年(1574)9月造営
       天正5年(1577)社頭没収
       寛永6年(1629)神主住宅並に社務所・宝庫焼失
       延宝7年(1679)9月7日本殿建立
       宝暦7年(1757)9月7日社領として氏子より銀子一貫の奉納
       宝暦14年(1764)6月造営
       明和3年(1766)9月23日造営
       明治6年村社
       昭和3年11月8日に神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「女代大明神」と称していた
   【公式HP】 女代神社
   【社殿】本殿王子造
       拝殿・社務所・手水舎・輿庫

   【境内社】稲荷神社・秋葉神社

三川合流地点西端に社が位置するため、大雨の際に屡々破堤し、大洪水を繰り返し、冠水の禍に瀕した。これにより「浮島明神」と称された。


由緒

当社は延喜式神名帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。 円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。往古祝融の災害により創立年月詳ならずと雖も古社たる事明かなり。
仁寿元年正月正六位(文徳帝御宇・西暦851年)
往古境内地五町四面なりしと伝えられる。当社御稜威の赫々たる事は古人の普く知るところにして、往古浮島明神と称せられ神殿が田圃の低地にあると雖ども円山川氾濫に際して未だ嘗て階段に浸水せしことなく浮島の名称空しからず、豊岡領主京極家は家臣をして洪水に際し詣拝せしめ実地測量せしめし事天和、元禄年間等一再ならず、僅かに数間の距離に於て数尺の水の高低あると伝え聞く。
然るに天正5年(安土桃山時代)社頭没収せられ其れがため祭祀衰えかつ寛永6年(江戸時代初期)神主住宅並に社務所・宝庫焼失し当時の古文書悉く烏有に帰し史料空し。其の後明和3年(徳川時代中期)古社大破せるを改築す。
文化5年(徳川時代後期)神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜わる(由来神祇官西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には白川、吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実に明なり。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものなり)

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



女代神社

女代神社は円上川と出石川の合流地点に鎮座しています。大昔から度重なる洪水がこの地を襲いました。しかしながら田園の低地にあるはずの当神社は神威の厚いご加護により、社殿への浸水は一度もありませんでした。
水に浮かぶが如くたたずむ神社の姿は「浮島明神」と称えられ災害や厄難を払い、円山川の交通の安全をつかさどる神社として崇敬されてきました。
当神社には往古より、水上運用の揚げ船があり、雨期になると神社前に係留し諸般の事に供してきました。
現存するものは明治21年森田弥四郎氏(森田道雄氏の先々代)製作によるものですが、舟の底部のみのなっていました。この度、森田道雄氏の赤誠により、伝承されていた匠の業をもって見事舟を復元されました。
これにより当神社の故事と往時を偲ぶよすがとして、末永く顕彰できることとなりました。
平成9年11月吉日

社頭掲示板



女代神社

当社は延喜式神明帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。
 円山川と出石川合流の西窪地田圃に囲まれ、数百年の老樹の繁げれる宮地なり。
 御祭神は造化三神(天御中主神・神産巣日神・高皇産霊神)と賛えられ、高天原に存せられし神である。
 往古祝融の災害により創立年月詳ならずといえども古社たる事明らかなり。

 仁寿元年正月正六位(文徳帝御宇・西暦851年)
 往古境内地五町四面なりしと伝えられる。当社御稜威の赫々たる事は古人のひろく知るところにして、往古浮島明神と称せられ神殿が田圃の低地にあるといえども、円山川氾濫に際して未だもって階段に浸水せしことなく浮島の名称空しからず。
 豊岡領主・京極家は家臣をして洪水に際し詣拝せしめ実地測量せしめし事、天和・元禄年間等一再ならず、僅かに数間の距離に於いて数尺の水の高低あると伝え聞く。
 しかるに、天正五年(安土桃山時代)社頭没収せられそれがため祭祀衰えかつ寛永六年(江戸時代初期)神主住宅に社務所・宝庫焼失し当時の古文書ことごとく鳥有に帰し史料空し。
 その後、明和3年(徳川時代中期)古社大破せるを改築す。
 文化5年(徳川時代後期)神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜る。
(由来神祇官西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には、白川・吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実に明らかなり。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものなり)

女代神社は円山川と出石川の合流地点に鎮座しています。大昔から度重なる洪水がこの地を襲いました。
しかしながら田園の低地にあるはずの当神社は神威の厚きご加護により、社殿への浸水は一度もありませんでした。水に浮かぶが如くたたずむ神社の姿は「浮島明神」と称えられ災害や厄難を払い、円山川の交通の安全をつかさどる神社として崇敬されてきました。
当神社には往古より、水上運用の揚舟があり、雨季になると神社前に係留し諸般の事に供してきました。現存するものは明治21年森田弥四郎氏(森田森田道雄氏の先々代)製作によるものですが、舟の底部のみになってしまいました。
この度、森田道雄氏の赤誠により、伝承された匠の業をもって見事同舟を復元されました。
これにより当神社の故事と往時を偲ぶよすがとして、末永く顕彰できることとなりました。

公式HP



女代神社

女代神社の歴史
奈良時代からの歴史をもつ女代神社をご紹介します。
女代神社(めしろじんじゃ)は円山川と出石川の合流地点に鎮座しています。
大昔から度重なる洪水がこの地を襲いました。
しかしながら田園の低地にあるはずの当神社は神威の厚きご加護により、社殿への浸水は一度もありませんでした。
水に浮かぶが如くたたずむ神社の姿は「浮島明神」と称えられ災害や厄難を払い、円山川の交通の安全をつかさどる神社として崇敬されてきました。
創立の詳細は今となっては不明ですが、平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」には全国の神社の一覧が記載されていてそこに当社の記載があり、城崎郡二十一座の式内社の一つです。
さらには奈良時代の「日本書紀」にも記載がある由緒ある神社です。

公式HP



女代神社

当社は延喜式神名帳に載する城崎郡21座の1社なり。
円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。往古祝融の災害により創立年月詳ならずと雖も古社たる事明かなり。
仁寿元年正月正六位(文徳帝御宇・西暦851年)
往古境内地五町四面なりしと伝えられる。当社御稜威の赫々たる事は古人の普く知るところにして、往古浮島明神と称せられ神殿が田圃の低地にあると雖ども円山川氾濫に際して未だ嘗て階段に浸水せしことなく浮島の名称空しからず、豊岡領主京極家は家臣をして洪水に際し詣拝せしめ実地測量せしめし事天和(1681〜1683)、元禄年間(1688〜1703)等一再ならず、僅かに数間の距離に於て数尺の水の高低あると伝え聞く。
然るに天正5年(安土桃山時代・1577)社頭没収せられ其れがため祭祀衰えかつ寛永6年(江戸時代初期・1629)神主住宅並に社務所・宝庫焼失し当時の古文書悉く烏有に帰し史料空し。其の後明和3年(徳川時代中期・1766)古社大破せるを改築す。

兵庫県神社庁



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