標高224mの秋葉山山上に立地する。 中世には両部神道となつて高負の社号を改め、白山神社、白山権現と称した。明治3年以後は神仏分離によつて高負神社と復称されるようになる。明治6年村社に列せられ、明治8年女人参拝禁止を廃止する。 |
高負神社 創立年月不詳 延喜式の制小社に列し、中古白山大権現と称せしも明治3年(1870)高負神社と復称して遷宮を行い、同6年(1873)10月村社に列し同8年(1875)女人参詣禁止の風習を廃したり。 兵庫県神社庁 |
高負神社 大字夏栗村 式内村社 高負神社(俗に白山神社もしくは白山権現と云う) 祭神 矢集連高負命(やづめのむらじたかふのみこと) 当社は延喜式内の古社にして中古より両部神道と為り、高負の社号を改め白山神社 白山権現など称せしも、明治3年太政官布告に基づき、旧称に今高負神社とす。当村65戸の鎮守神にして俚人の崇敬甚だ厚し。まことに往昔より武神として代々の領主の信仰浅からず、神帛を給いて之を祀れり。 人皇41代持統天皇の朱鳥3年、進大弐 忍(海部(おしぬみべ)の)広足、多遅麻の大穀と為るや、久斗の兵庫鎮護の神として久刀及び兵主の神に兵庫の側に祀り、高負の神を高田の丘に祀り、大売布の射楯丘に祀り給ふとあり。 「但馬国式社鎮座考」には、高負神社 百済王仁或いは大己貴命(おおなむちのみこと)の太多庄大岡大明神也。白山大明神 太多庄夏栗座云々。(中略) 又、式社道志留弁には、高負神社 夏栗鎮座、白山社と云う。貞観9年大和国正六位上 高生神社従五位上などと出たり。高生の元の高負の文字を充て用いし事は明かなるも、祭神に至っては大己貴と云い、百済王仁、或いはその末裔と云い之を証するに途なし。 日高村郷土誌 |