寸は村の省字とされている。 孝徳天皇大化3年(647)、気多郡の軍団に兵庫を設けてその鎮守として祀られたと云われる。 「傳ヘ云ふ孝徳天皇大化3年(647)氣多郡の軍団に兵庫を設け其の鎭守として當社を創立せり延喜式の制小社に列し中古以來鳴瀧大明神と称す南龍城主山名氏、垣谷氏共に當社を崇め例祭には幣帛を捧げ安政2年(1855)には本殿を再建せり明治2年社名を旧称に復し同45年本殿を再建し拝殿を改築せり」『兵庫県神社誌』 |
久刀寸兵主神社 「大日本神祇志」第十七に、 久斗寸兵主神社 寸、即ち村の省字。今は久斗村と称す。鳴滝大明神。相伝祀 須佐之男命、多寸比売命説云々。 又同書に 城崎郡兵主神社 今在赤石村 相伝祀 素戔嗚命、大己貴命 社伝云々 とあり、美含郡故事記追記は 武素戔嗚神(たけすさのおのかみ) 経津主命(ふつぬしのみこと) 武甕槌神(たけみかづちのみこと) 天忍日命(あめのおしひのみこと) 道臣命を以てせり。神明帳考証にもまた、出石郡大生部兵主神社 素戔嗚命 朝来郡兵主神社 素戔嗚命 とて、各書兵主神社祭神の須佐之男命なるを以て明示し、但馬式社鎮座考には、兵主神社 素戔嗚命 鳴滝大明神 高田庄久斗と載せたり。 すなわち、考えるに当社の祭神を大己貴命とせるは、後世の誤りにして当社の祭神は、おそらくは素戔嗚命なりしなるべし。 宝暦9年出石村内明細帳神社書上帳に、 一 鳴滝大明神小社 三尺?ニ二尺八寸 一 弁財天小社 二尺?二二尺六寸 右は凡そ七百年程前に勧請仕し候。‥即ち鳴滝大明神兵主神社なれど、果たして何時の世に鳴滝の社号い用いでたるやは確証なし。又、宝暦の書上に凡そ七百年程以前に勧請すと云えるも謬(あやま)りにて、当社は延喜式にも表れたる古社なれば、七百年などと云うことあるべからず。要するに当社は尤(もっと)も由緒ある古社にて昔の武人の尊敬篤くありしことは、垣谷氏より祭典ごとに幣帛料を供進せしにても証し得るべきなり。 現今の建造物は、明治45年7月の新建にして久斗全村130戸の鎮守神なり。境内坪410坪 一座の末社あり八幡宮と云う。 日高村郷土誌 |
兵主神社について この社名をもつ神社は式内社に限られ、しかも式内社中、その数が最も多く十八社ある。但馬では五社六座あり、全国の兵主神社の三割を占め、そのすべてが円山川水系に沿って鎮座している。 豊岡市域は兵主神社の数では全国一である。兵主とは、中国の天主・地主など八神中の武神のことで、兵器を造った神であった。 この中国大陸の神が日本で祀られているのは、漢人が奉じてきたものと考えられていて、但馬では漢人が、かつて渡来して円山川水系を遡って、ここかしこに集落を構え、祖先の国から持ち伝えた神を祀り、異域の地で精神的なよりどころとしたのであろう。 ところが、兵主神社のある地方には漢人関係の伝説や史跡はほとんどなく、祭神は兵主神社であるよりも須佐之男命や大国主命が多いことから、荒ぶる神のことではないかともいわれている。 しかし、但馬の場合は天日槍(あめのひぼこ)の帰来伝説地帯の近くに、兵主神社が分布しているので、やはり大陸との深い関わりを示すものといえるだろう。 豊岡市史 |