気多神社
けたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】気多神社 但馬国 気多郡鎮座

   【現社名】気多神社
   【住所】兵庫県豊岡市日高町上郷227
       北緯35度28分42秒、東経134度47分35秒
   【祭神】大己貴命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧郷社 但馬国総社
   【由緒】神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建
       豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼
       延宝5年(1677)再建
       明治3年現社名に改称
       明治6年10月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】別の地から移転したとの口伝
        元の鎮座地、移転の時期不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「総社気多大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造柿葺
       拝殿・社務所

   【境内社】八坂神社、須知神社、八幡神社、愛宕神社

大化改新後国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。
口伝によると、気多神社は古くからここに鎮座していたのではなく、移転してきたものだというが、元の場所はといえば分明していない。


由緒

創立年月不詳なるも大己貴命、葦原志許男命と国占の争ありし時、命の黒葛此地に落ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し中世以降総社気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有したりき明治3年社名を現在の通りに改め同6年十月郷社に列せらる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



気多神社

気多神社(由緒)
鎮座地 兵庫県城崎郡日高町上郷字金堀227
大古山陰地方は「大国主神」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許乎命」と称されていた。
新羅国の王子「天日槍」が山陰海岸に渡来し、「葦原志許乎命」と支配地の争いになったが、和解の結果、志爾嵩山頂から両社三本ずつの矢を射て支配地を決めることとなった。
天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許乎命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。
そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許乎命は新たに建立された「養父神社」「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(播磨風土記)
国司文書によれば気多神社は神武天皇9年(前651)に気立(気多)の丘に創建されたと記されている。
大化の改新後は国府地区に但馬国府が創立され、気多神社は「総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郡一社の 「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂。鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。
現社殿は延宝5年(1677)の再建であり、大正12年に大修築を行い現在に到っている。現存する鰐口は応永32年 (1425)の作で町文化財に指定されている。明治3年気多神社と社名を改め、明治6年郷社に列せられた。
境内社には、八坂神社、須賀神社、八幡神社、稲荷神社、愛宕神社等が祭られている。

社頭石碑



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