用明天皇の皇子麻呂子親王が丹後国竹野郡の賊を征伐するため当社の北の江笠嶽鎮座の牛頭天王に参籠祈願したのを創祀とする。 |
由緒 但東町薬王寺字宮内に鎮座する天王さん(大生部兵主神社)は、祭神として素盞嗚命を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉じて牛頭天王に参篭祈願され神像を彫刻せられたとあり古くから牛馬の神様として毎年5月3日に祭が行われています。現在では交通安全・家内安全・縁結びの神様としてお参りされています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大生部兵主神社 但東町薬王寺字宮内に鎮座する天王さん(大生部兵主神社)は、祭神として素盞嗚命を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉じて牛頭天王に参篭祈願され神像を彫刻せられたとあり古くから牛馬の神様として毎年5月3日に祭が行われています。 現在では交通安全・家内安全・縁結びの神様としてお参りされています。 兵庫県神社庁 |
大生部兵主神社 ●県社として栄えた牛馬の神を祀る神社 薬王寺の大生部兵主神社は「天王さん」と呼ばれ、牛馬の神様を祀る神社として古くから人々に親しまれてきました。いつ頃できたものかはっきりしていませんが、かつては県社として栄えた由緒ある神社です。 用命天皇の時代(585〜587)、勅命を受けて三上山(京都・大江山)に棲む鬼の討伐にやって来た皇子・麻呂子親王が、牛頭天王に祈願したという伝説が残っています。このことから、それ以前に創立されたものと推測されます。また国司文書には、天武13年(684)に社を別の地に移して祀ったとあり、その前後に現在の地に移されたのだと考えられています。 境内には樹齢400年と推定されるご神木の杉の木があります。この木には、地上1〜3mの間に23カ所の呪いの釘跡があります。この辺りの山は、昔、大江山とを結ぶ修験の道があったといわれ、山に入り帰らぬ男への恨みを女が釘に込めて、この杉に打ち込んだのだといいます。後に宮司がこの凄惨なありさまを見るのが恐ろしく、ノミで釘を抜き、周囲を修復したそうです。木には今でもその跡が残っています。 現在は 交通安全、家内安全、縁結びの神様として崇められており、毎年5月3日に豊作を祈願する春の大祭が行われています。大祭では地元の中学生が巫女の衣装をまとって、神楽「浦安の舞」を奉納します。続いて「練り込み太鼓」が披露され、笛や太鼓の音が辺りに響き渡ります。この日は餅まきなども行われ、神社は地元の人たちで賑わいをみせます。 但馬の百科事典 |
大生部兵主神社の神楽殿 この押社は「式内社」の一つであり、 その拝殿や本殿も兵庫県の文化財として指定されている由結ある神社である。 境内は集落のほぼ中央部を占めており, 角地にあって. 良好な自然環境と量観とを示している。広い境内に入つて、階段をのぼって行くと、実に大きな神楽殿が建つている。 この神楽殿は、正面右端柱の上に札が下げられてあり、そこに「神楽展 元治元年建立 」と記されているのを読むことができる。 元治元年とは西暦活1864年であり、 いまから約137年ほど前のこととなる。 桁行10.100mmで梁間が7,870mmを測ることができる。この桁行を4間に割り、梁間も4間にしている。 梁間の一間は約6.5尺にあたることから、桁行が五間と少々ということになるようである。 床を貼り、のぼりの階段を付けているが、 全面が吹放ちである。 壁は、軒桁から下がった垂壁であり、これが四周を廻っている、柱間のところどころに、 横棒を留めるような穴のあいた板が打ち付けてあるが、これらに棒を渡して幕でも下げて、神楽の際の「舞台」や「楽屋」などの仕切にでもしたのであろうか。 神楽殿は、東面する拝殿や本殿の方を向いて、西面して建てられている。神楽殿の正面が、そちらの向きである。そうすると、「観客席」は僅かしか取れないことになるのであるが、さきにみた集落内の楽しみのための農村歌舞伎舞台とは違つて、 神に捧げる「神楽」を演ずるのであるから、これでいいのであろう。 この正面の両出間と中央間とには、華麗な彫刻が付けられて、正面性を強調している。 両脇間には虹梁のような形の梁の上に渦巻きが彫られてあり、 木鼻も突き出ている。 中央間には6.700mmという長い大虹梁が渡され、その上に渦巻きと若葉とが優れた技法で彫られ、さらにその下には、やはり渦巻きと若葉とを付けた実肘木のような挿肘本が、頬杖として付けられている。 妻飾りは本連れ格子を用いており、拝みにはちょっと異形の無懸魚が付けられているのをみる。 なかなかに優れた遺構であり、なんとかこのまま残して行きたいものの一つである。 ここから下がって、 手水屋をまわり、住宅の方へ行くと、もう一つの舞台のような神楽殿をみることができる。妻入の小さなものであるが、古い形を残している。桁行が4,960mmで梁間が7,265mmを測る。全面の一間は吹き放ちになり、その奥には、現在は、畳が敷かれており、さらに奥には仏壇が飾られていた。この仏壇の中央間には、形の良い虹梁が架けられて、その上に出組が詰組で載り、支輪も付けられている。 外観も優れており、頭貫や台輪を載せて大斗実肘木をおいて軒桁を受けるという形を取り、正面中央には蟇般を置いている。 屋根が瓦葺きとなり、外壁も新しいものであるが、かなり優秀な建築であって、こちらも残しておきたい費重な造構であった。 兵庫県教育委員会 |