菓祖本社中島神社と称している。菓子の神様として、広く親しまれている。常世の国から橘の実を持ち帰ったとされる田道間守命を菓子の神様として祀る神社。 本殿は二間社流造、国の重要文化財に指定され、室町中期の特色をよく示している。正長元年(1428)に再建された。 推古天皇の御代に田道間守命の七世の孫にあたる三宅の吉士、中島の公が、祖先の田道間守命を初めて此所に祀ったのに由来している。 |
由緒 持統天皇15年の創立と伝ふ祭神多遅麻毛理命は天日槍命五世の孫にして三宅、橘守、糸井連等の始祖なり命は現在地に居を定め安美谷(神社所在地附近六ケ部落の俗称)を開墾して農蠶を奨励し民心を愛撫し給ひしが垂仁天皇の御世勅命を奉じて常世国に渡り非時香菓を得て帰り給ひしに天皇既に崩じ給ひしかば復奏するを得ず遂に啼泣して殉死せりされば時の景行天皇其の純忠を憐み先帝の陵側に葬らしめ給へりかくて此の地に住める子孫は命を敬慕し祠宇を創建すると共に命の墳墓が垂仁天皇御陵域内の池中に在りて島をなせるに因りて中島神社と称し其の遺徳を後世に伝へたるものにて國司文書には推古天皇の御代子孫なる三宅吉士なる人創祀せる旨を記せり中古に至り安美郷中の四社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し総社として中島神社五社大明神と称せしが後ち各神社を分離移転して安美神社(祭神天湯河棚神)のみは今尚相殿に奉祀せり。 社殿は應永年間火災に罹り社蔵古文書焼失のため詳かならざるも太田文其の他古文書に神領又は社田を有せし旨を記せり其の後社殿は前記火災後時の藩主山名宮内少輔再築し正長元年竣工す内外極採色の構造にして又古雅を極む松平伊賀守出石城主たるに及び元禄13年修覆せり後ち仙石讃岐守出石城主たるや社領高三十四石九斗を奉納せしめ以て廢藩に至りて止む明治6年10月村社に列し同28年12月郷社に進み昭和10年10月縣社に昇格せり。 相殿安美神社の由縁沿革詳かならざるも祭神天湯河板擧命は垂仁天皇の御世勅命を奉じて鵠を追ひ但馬國に至りて捕獲せられし由を國史に伝ふ其の捕獲地は和那美之水門と云ひ現今神美村上鉢山に属し此の事有りてより此の谷を安美郷又は安美谷と称す此の故を以て士民其の遺徳を敬慕し捕獲地を直親し得る三宅に社殿を建立して奉祀せしも中古此の安美神社は西方三丁にある中島神社に合併す今尚舊社地と伝ふる田甫中に一本杉と称し一株の古杉あり合併年代不詳なりと雖も中島神社々殿は應永30年の再築に係り二間社造りなれば現社殿再築以前の合併なるは明かなり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
菓祖 中嶋神社由緒 御祭神 田道間守命 当神社の創立は甚だ古く、約1300年前の第33代推古天皇(在位592〜628)の御代と言われ、現在の朱塗りの本殿は、今より約600年前の室町時代中期、正長元年(1428年)に、但馬の領主山名氏により建立されたもので明治45年国宝に指定されております。 御祭神の田道間守命は韓国、昔の新羅の王子で、我が国に渡来して帰化し、ここ但馬の国を賜り、これを開発した天日槍命(旧国幣中社但馬一の宮出石神社の祭神)の曾孫で、第11代垂仁天皇の命を受け、当時の菓子としては最高のものとして珍重せられた「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」(橘…みかんの一種)を常世の国(現在の韓国済州島と言われている)に渡り長い歳月をかけ、艱難辛苦のすえ持ち帰りましたが、天皇は既に亡くなっており、命は悲嘆の余り、その御陵に「ときじくのかぐのこのみ」を献げた上、殉死されました。 ときの景行天皇(垂仁天皇の第三皇子)は、命の忠誠心を哀れみ、御陵の池の中に墓を造らせられましたが、推古天皇の御代になって、命の子孫で七代目の孫にあたる当地三宅に住む吉士中嶋の君と言う方が当社を創立し、命を祭られたと伝えられております。 中嶋神社の名は、御陵の中の命の墓が、中の島に見えるところから名付けられたと言われ、いのちをかけて「ときじくのかぐのこのみ」を持ち帰った命を、菓子の神様として祭るようになり毎年四月の第三日曜日を、橘菓祭(菓子祭)とし、全国より菓子業者の参拝もあり、招福・家業発展を祈願して、盛大に祭典が行われます。 社頭掲示板 |
中嶋神社 御祭神、田道間守命は、第11代垂仁天皇の御代、命ぜられて常世の国(とこよのくに)に渡り、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を持ち帰られた。これは、今の橋とされ、当時としては、最も優れた菓子として、田道間守命は、お菓子の神様として崇敬されている。現在、全国各地に中嶋神社の分社が祀られている。また、今日ほぼ4〜6年に1回、全国菓子大博覧会が様々な都市で開催されているが、この博覧会の開催に先立って、会場内で田道間守命をお祀りして博覧会の成功と菓子業界の繁栄を祈願している。 神社の創立は甚だ古く、第33代推古天皇の御代、田道間守命の七世の孫にあたる三宅の吉土、中嶋の公が此の地に祀ったのに由来している。 中嶋の社名は田道間守命のお塚が、垂仁天皇の御陵のお堀の中に、嶋のように浮かんでいるところから名づけられたとされている。当社は延喜式の神名帳に登載されている式内社であり、また、本殿は室町中期、正長元年(1428)に建てられた「二間社流造」の珍しい建築物で、明治45年(1912)に国宝に指定され、昭和26年よりは国の重要文化財にされている。 兵庫県神社庁 |
中嶋神社 天日槍命(あめのひぼこのみこと)の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国から「非時(ときじく)の香の木の実」(橘)を持ち返ったと記される田道間守命(たじまもりのみこと)を主祭神とし、天湯河棚神(あめのゆがわたなのかみ)を配祀する。そこから菓子の神・菓祖として崇敬される。また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから養蚕の神ともされる。 天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神である。天湯河棚神(天湯河板挙命)は鳥取造の祖である。一説には、日本書紀に記される、垂仁天皇の命により天湯河板挙命が鵠を捕えた和那美之水門の近くに天湯河棚神を祀ったものであるという。 中嶋神社は、天日槍(日矛)を祀る但馬一宮・出石神社とともに立派な社で、この地が古くから屯倉(三宅)としてヤマト政権の直轄地にあることが重要であろう。また、但馬の出石・城崎(豊岡)・気多(日高町)には天日槍ゆかりの神社が多い。 現在の社殿は、応永年間の火災の後、正長元年(1428年)に再建されたもので、室町中期の特色をよく示しているものとして重要文化財に指定されている。 国司文書 但馬故事記によれば、第33代推古天皇15年(607年)、田道間守の七世の子孫である三宅吉士*1が、祖神として田道間守(たじまもり)を祀ったのに始まる。「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからという。中古、安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した。 「但馬史研究」第31号 |
お菓子の神様 お菓子の神様「田道間守命(たじまもりのみこと)」がまつられている神社(総本社)です。 中嶋神社は7世紀後半、推古天皇の時代に建てられました。神社の名前は「田道間守命」のお墓が垂仁天皇陵の池の中に、島のように浮かんでいることに由来するといわれています。室町時代に建立された本殿は「二間社流造り」という珍しい様式の建物で、これは、室町時代の典型的な神社建築を伝えるものとして、明治45年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財となっています。 毎年4月の第3日曜日に開催される「菓子祭」では全国の菓子業者が商売繁盛の祈願に訪れると共に平成23年からは前日祭も豊岡市内中心市街地で開催され、多くの来場者で振わいます。 田道間守命 遠いむかし、田道間守命は第11代垂仁天皇より遠い海の向こうにある「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を探すように命令されました。当時、日本に「非時香菓」は無く、食べると歳をとらずに長生きが出来ると考えられていました。 田道間守命は十年の歳月をかけて、やっと非時香菓を見つけました。大喜びで非時香菓を持ち帰りましたが、その一年ほど前に天皇は亡くなっていて、持ち帰った橘の半分は皇太后に献上され、残りの半分を天皇のお墓に植えられた後、悲しみのあまり亡くなったと伝えられています。 非時香菓は現在の橘 田道間守命が持ち帰った非時香菓は現在の橘であると言われています。 「橘」とはミカンの原種です。昔、果物は「果子・かし」と呼ばれており、橘は果子の最上級品とされていたことから、田道間守命はお菓子の神様として崇敬されています。 豊岡商工会議所 |