中世に社家と氏子のとの間で争いがあり、その結果、社家を廃して氏子により運営することになった。 社名も、社家の姓であった「日出」から栃の木が多かったために「栃森大明神」と変更した。 氏を異にする地域の住民が同一神村落(日殿村)(市場村)(南尾村)(出会村)の共同の元で日出神社を氏神として祀り、栃森社といわれ、中世から江戸末期まで数百年におよんだ。伝説として神功皇后が三韓征伐の時、勅使を派遣して供物を献じ、中世の頃市場の高山城出合の山城の城主が社を納め、祭料を毎年献じたともいわれる。江戸時代に入り、寛永〜正保の間(1624〜1647)出石城主小出吉秀が出石川改修に際して、社殿を新築し、幕末安政6年(1859)にも本殿が造立されている。 |
日出神社 創立年月不詳 ●(木偏に厂の中に萬)森大明神と称し後には●森神社と崇めたり神功皇后三韓征伐の際、勅使差遣ありて供物を献ぜらるると伝う。 武家の代となり市場高山城(姫ヶ城ともいう)出合山城の両城主共に当社を崇めて祭餐料を献じたり江戸時代寛永、正保の間領主小出吉英出石川改修に当たり当社を舊地の東南隅に移転し社殿を新築せり。 安政6年(1859)本殿を造立し明治3年(1870)社名を日出神社と復称し同6年(1873)10月村社に列し同42年(1909)拝殿を造立せり。 兵庫県神社庁 |