名草神社
なぐさじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】名草神社 但馬国 養父郡鎮座

   【現社名】名草神社
   【住所】兵庫県養父市八鹿町石原1755-6
       北緯35度25分21秒、東経134度39分20秒
   【祭神】名草彦命
       (配祀)天御中主神・高皇霊産神・神皇霊産神・五十猛神・大屋津姫神・柧津姫神

   【例祭】7月18日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】敏達天皇14年(585)5月創建
       文安2年(1445)9月寄進状あり
       天正5年(1577)秀吉によつてそのすべてを没収
       慶安元年(1648)家光の朱印状
       宝暦4年(1754)造営
       明治2年「名草神社」に復した
       明治6年10月村社
       大正4年11月神饌幣帛供進神社指定
       大正11年12月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初より此の地に鎮座していた

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「妙見社」「妙見宮」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造柿葺
       拝殿・社務所・三重塔

   【境内社】保食神社・三柱神社

敏達天皇14年(585)5月に養父郡司で紀伊国名草郡出身の高野直夫幡彦が、当時流行した悪疫に苦しむ民を憐んで、名草彦神など故郷の祖神を、当地の石原山(妙見山)に祀つたのを創建とする。平安末期より祭祀諸神中に星の神北辰とされる「天御中主神」のあることをもつて、妙見信仰の場となり、神仏習合の色をもつようになつた。さらに中世を通じて真言宗帝釈寺との関係を深め、両部神道の典型を構成した。その加持祈祷で明治維新まで出石藩主仙石氏や村岡藩主山名氏、因幡藩主池田氏、摂家一條氏などの祈願所となつた。
維新後の神仏分離令により、社人と寺僧間で争いが生じ、明治2年「名草社」の名に復したものの係争は続いた。同9年豊岡県による帝釈寺の廃止通達を経て、同13年本社の東南6Kmの成就院に、帝釈寺は合併(現日光院)して一応の決着をみた。この間に社要記録や宝物は散逸し、明治6年10月の社格制定に際しても、紛糾時ゆえに村社にしか列せられなかった。


名草神社

神々がやどる
妙見(みようけん)さんに参拝する
名草神社は標高1142mの妙見山の八合目にあたる標高800mの場所に位置しています。高山植物が花をさかせる春、涼しい夏、霧の多い秋、3mをこえる冬の雪など、神域の中には清らかな四季があります。
名草神社は、五穀豊穣をつかさどる名草彦大神(なぐさひこのおおかみ)を主祭神とするお宮様です。巨大な杉木立にかこまれた神域は、澄みきった自然と一体となった霊場です。但馬地方で最も荘厳でしかも最も伝統のある農業を司る神様として多くの崇敬を集め、「妙見さん」と呼ばれて親しまれています。
また妙見林道沿いには、町指定の不動明王(ふどうみょうおう)の磨崖仏(まがいぶつ)があります。高さ76cmの小さなものですが、天文14年(1545)に作られた但馬で最古のものです。古くから多くの参拝者を見守ってきました。
門のような拝殿(はいでん)
拝殿は高い石垣にせりだすように作られています。昭和42年3月31日に県指定文化財になりました。建物は正面が五間(ごけん)で側面が二間(にけん)、大きさは正面が1.5mで側面が5mです。
屋根は本殿とおなじ入母屋造(いりもやづく)りで、屋根はこけら葺(ぶき)という方法です。
元禄(げんろく)元年(1688)に作られています。神社の社務所も古いもので、元禄8年(1696)に建てられました。玄関には龍の彫刻があり、左甚五郎の作と伝えます。
拝殿の中央が通路になっており、門のような形になっています。これを割拝殿(わりはいでん)といいます。石垣から前にせりだしている姿は、広島県の厳島神社を摸したものと伝えています。
北斗七星が輝く祈りの文化
彫刻の珍しい本殿(ほんでん)
本殿は境内のなかで最も高い場所に作られた建物で、正面が九間(きゅうけん)(18m)で、側面が五間(ごけん)(9m)という大きなものです。宝暦(ほうれき)4年(1754)5月20日に完成しました。昭和42年3月31日に県指定文化財になりました。正面からみた姿は日光東照宮を模したものと伝えます。
屋根をみると正面に三角形の小屋根(千鳥破風(ちどりはふ))があり、その下に半円形の屋根(唐破風(からはふ))があります。このため「千鳥破風軒(のき)唐破風付(つき)の入母屋造(いりもやづくの)」の屋根とよびます。
また本殿正面の約7mが前に一段でています。この部分を向拝(こうはい)といいます。この向拝の柱には、口をおさえた獅子(しし)と耳をおさえた獅子の彫刻があります。ほかにも向かいあった一対の獅子や玉をにぎった龍の彫刻、そして屋根をかつぐ力童子(ちからどうじ)や鳳鳳(ほうおう)など、精巧な彫刻がみられます。
本殿の構造は、岡山県吉備津(きびつ)神社などと同じ建築様式で、四面庇(しめんひさし)系平面の神社本殿という立派なものです。そして兵庫県を代表する神社建築として特筆されています。
富田砕花の歌碑と夫婦杉
昭和62年に三重塔の“昭和の大修理”を記念して、参道に詩人の富田砕花(とみたさいか)さんの歌碑がたてられました。書は八鹿の綿貰墨石(わたぬきぼくせき)さんです。「妙見の雪に埋もれてひっそりと、生きづけるがに塔はあるもの」という歌で、大変味わいがあります。
また三重塔の横には夫婦杉の展示場があります。樹齢1500年という国指定文化財の巨木で、根の回りが14・5mもありましたが平成3年の台風で倒木したので、根株を顕彰しています。
名草神社を祀る
名草神社の本殿の内部は7室にわかれ、7柱の神様を祀ります。名草彦大神を主祭神として、天御中主神・高皇霊産神・神皇霊産神・五十猛神・大屋津姫神(おおやつひめのかみ)・柧津姫神(つまつひめのかみ)で、合計7柱(はしら)の神様です。
敏達天皇十四年(567)の春四月、養父郡司高野直夫幡彦(たかののあたいふばたひこ)が紀伊国名草郡より来りて、郡民が悪い疫病や五穀(ごこく)の病虫に苦しむことを憐れみ、祖神である名草彦神をまつったものだと神社では伝えています。また今から1000年前にかかれた延喜式に神社名が記されていることから式内社といいます。また戦前の社格は県社でした。
神道では天御中主神、真言宗では妙見菩薩(みょうけんぼさつ)、天台宗では尊星王大士、日蓮宗では北辰妙見菩薩といって、北極星や北斗七星を神仏として祀りました。これを北辰北斗(ほくしんほくと)といいます。このため星を神として祭る名草神社を妙見社とか妙見さんと呼びます。星が人の運命の長短を支配すると信じられ、山名宗全を初めとする多くの武家が戦勝祈願をしました。江戸時代には村岡藩や出石藩の祈願所にもなりました。山陰地方でも随一の妙見信仰の総本宮として栄えました。妙見村の人びとは御師(おし)とよばれる神職として、苗字・帯刀を許されていました。そして但馬だけでなく丹後・丹波・因幡など広く配札人として布教活動に活躍しました。
名草神社をはじめ福島県相馬(そうま)中村神社、千葉県千葉神社、熊本県八代(やつしろ)神社などが妙見社です。相馬藩主の相馬氏、熊本藩主の細川氏も信仰しました。千葉周作の北辰一刀流も妙見信仰の表れです。
名草神社の境内,
林道から名草神社の境内に入って、300年をこえる杉の中を進むと但馬地方ではただ一基だけの三重塔が迎えてくれます。山陰地方から九州地方には他に国指定の三重塔はありません。そして大きな鳥居をくぐると、南から北にむかって一直線にのびる79段の石段がそびえています。この高い石段によって聖なる神域が守られています。この石段をあがって初めて社務所と拝殿がみえます。そして最も奥まった北側の中央に本殿が祀られています。風水思想に適した配置です。境内には母樹に指定されている妙見杉が繁っています。妙見杉は兵庫県を代表する寒冷地型の杉です。神木として大切に守られてきました。
三重塔を守るサル
三重塔の三層目の軒には、サルの彫刻があります。古書には「世の人は見ざる、言わざる、聞かざるというけれども、思わさるをたもてば、三の猿はたやすいことだ」と書かれています。現在も四匹の猿の彫刻が見守っています。
●名草神社文化財クイズ
@妙見山は八鹿町で最も高い山で、標高1,142mあります。名草神社の本殿は妙見山の八合目にあります。さて標高は何mでしょうか。
A三重塔の屋根の上の最先端にあるトンガリを宝珠(ほうじゅ)と言いますが、その下に円形の輪が連なっています。さてこの輪は何個あるでしょうか。
B三重塔にはある場所にサルの彫刻があります。見ざる・言わざると、あと二ひきのサルがいます。それは何ザルでしょうか。
C三重塔の屋根はコケラプキと言って、厚さO.3p・長さ36cm一幅12pの薄い杉板を重ねて張っています。さて三重塔の全体で何枚のコケラが使われているでしょうか。
【ヒント】八鹿町の人口の10倍の数です。
Dこの三重塔は西暦1527年に、島根県の大きな神社に建てられたものです。その神社の名前と神社のある町の名前を考えてください。
E神社の鳥居をくぐると、上の社務所前の広場まで高い石段が続いています。この石段は何段あるでしょうか。
F名草神社の本殿の場所から見て北はどちらでしょうか。
【ヒント】名草神裡では北極星や北斗七星をまつります。
G本殿の前にある建物を拝殿と言いますが、但馬牛の健康を神様にお願いするので、牛の彫刻があります。それはどこでしょうか。
H神社の本殿の正面の柱には獅子(シシ)の彫刻があります。左側は口をおさえていますが、もう一つのシシは前足でどこをおさえているでしょうか。
Iそれそれの家には家紋があります。名草神社も北斗七星にちなんだ神紋があリます。どんな形でしょうか。
【ヒント】本殿の屋根に付いています。
J名草神社の境内には大きな杉の木が繁っていますが、この杉の品種と木の樹齢を考えてください。
○クイズ毒答え
@標高800m。A9個あるので九輪(クリン)といいます。
B聞かザルと思わザル。C12万2千枚。D出雲大社。島根県大社町。E石段は79段です。F鳥居から本殿まで一直線に真北をむきます。G拝殿の天井を見てください。H耳をおさえる。I七曜星といい、中央の円を6個の円が囲みます。
J妙見杉という品種で、樹齢は250年から400年。

社頭掲示板



名草神社

県指定文化財 名草神社
指定年月日 昭和42年3月31日
所有者・管理者 名草神社
妙見山の中腹、標高800mの高地に本殿がある。別名を妙見社とも言い、名草彦命、天御中主神など7神を祭祀する。
本殿は宝暦4年(1754)に造られた大規模な建築で、正面が9間(17.50m)、側面が5間(9.04m)で、屋根はこけら葺で入母屋造、正面に千鳥破風と唐破風をつける。
彫刻は精巧で、向拝の両側の柱には口をおさえた獅子と耳をおさえた獅子、その上の軒下には力童子など、多数の彫刻がある。
平面は丙々陣・内陣・外陣の3区に分かれその周囲に境がめぐるもので、江戸時代の神仏習合の神社建築として特筆される。
平成3年11月
兵庫県教育委員会

社頭掲示板



名草神社三重塔

国指定重要文化財 名草神社三重塔
明治37年2月18日指定
三間三重塔婆
 この三重塔は、島根県出雲大社に出雲国主尼子経久が願主となって大永7年(1527)6月15日に建立したものと伝えます。
 出雲大社の本殿の柱に妙見杉を提供した縁で、塔は日本海を船で運ばれ、寛文5年(1655)五5に標高800mのこの地に移築されました。
 高さは24.1m、一重の一辺の柱間は4.7mあります。屋根はこけら葺で、各重には高闌付縁があります。心柱は二重から塔の先端まで伸びています。
 大永7年の材料は松・けやきが主体で、寛文5年に移築されたとき、妙見杉で補っています。
 彫刻では一重の軒隅で力士が屋根を支えています。蟇股には凡字のほかに蓮、牡丹、琵琶、雲の透かし彫りがあります。また三重の軒隅には「見ざる・言わざる・聞かざる・思わざる」を表した四猿の彫刻があります。
 昭和62年10月に解体修理が完成し、丹塗りも鮮やかな、三重塔が460年ぶりによみがえりました。
昭和63年11月
八鹿町教育委員会

社頭掲示板



名草神社拝殿

県指定文化財 名草神社拝殿
昭和42年3月31日指定
桁行五間、梁間二間、割拝殿、入母屋造桧皮葺
棟札に元禄元年(1688)5月から同2年6月にかけて建立されたと伝えている
本殿と庭をへだてて相対し がけのふちに立っている。
柱は円柱、組物は出組で軒支輪をつけている。中央間馬道の上部には、大虹梁をかけ、中備えに蟇股を置いている。組物、木鼻などは古調で見るべきものがあり、保存も完好である。
江戸時代中期の代表的な割拝殿として貴重な遺構である。
昭和51年11月
兵庫県教育委員会

社頭掲示板



名草神社本殿

県指定文化財 名草神社本殿
昭和43年3月31日指定
桁行九間、梁間五間、正面三間、向拝付入母屋造
正面千鳥破風、軒唐破風付桧皮葺
棟札によると、宝暦4年(1754)建築であることが知られる。
平面は七区に分けた内々陣を中心に、内陣外陣と四周の庇で構成されている。これは真言系の神仏習合の社殿として建築史上とくに重視すべき点である。
柱は身舎の部分を円柱、庇を大面取方柱、向拝を几帳面取方柱とし、組物は外廻りを出三斗、正面庇と外陣のさかいを出組、内部を二手先とするなど、ところによって意匠をかえているのも興味ぶかい。

社頭掲示板



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