『但馬郷名記』によると、持統天皇4年(690)養父兵団の置かれていた更杵(さらきね)に兵主神を祀ったのが、当社の創祀。しかし、それ以前の天智天皇の御宇、養父郡の小領日下部都牟自(孝徳天皇第二皇子表米の嫡子)が 当社の祭典を盛大に催したという伝承もある。 近世に至つて更杵の集落が衰え、当社は取り残され、荒廃のまま放置されていた(更杵は現在の室尾集落の地)(もとは更杵のフコサ(布告座?)にあり、後に遷座されたものという)。幕末、当社の再建と移宮をめぐつて、寺内と林垣の封立がみられたが、結局、今の地に移建された。 明治6年村社に列せられたが、当時の神社改めの際、社殿や境内の貧弱さから式外社とされ、代つて林垣の十六柱神社が式内更杵村大兵主神社として報告され、以後諸書はこれに倣うようになつた。 |