社伝によれば崇神天皇30年の創祀とある。当初は弥高山全体が神体とされ、山頂に上社、中腹に中社、現社地に下社が置かれていたと言う。現在上社中社の痕跡は残っていない。「養父郡誌」は上社を保食神と五十猛神、中社を少彦名命、下社を丹波道主命と船帆足尼命としている。
4月15日に行われる御渡祭は俗に「お走りさん」と呼ばれ、当地方最大の祭礼である。約18Km南の同町長野の齋神社まで走るように御輿が引かれ、葛葉の御供をして、翌日還御する。 |
由緒 創立年月不詳なるも仁明天皇承和12年従五位下の神階を授けられ清和天皇貞観11年正五位下に進み同16年正五位上となれり延喜式の制名神大二座、小社三座となり明治6年10月郷社に列し同12年4月縣社に昇格せり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
養父神社 養父神社由緒記 鎮座地 兵庫県養父郡養父町養父市場763 御祭神 倉稲魂命−−−−−−−−米麦養蚕牛馬の神様 少彦名命−−−−−−−−薬草、治病の神様 大巳貴命(大国主命)−−国土開発統治の神様 谿羽道主命(但馬道主命)国民生活安定の神様 船帆足尼命−−−−−−−地方政治の神様 沿革 養父神社は崇神天皇30年(皇紀594年西暦前66年)約2000年前に御鎮座になり、仁明天皇承和12年に無位養父神を従五位下に叙し、清和天皇貞観11年従五位上養父神を正五位下に叙され、16年正五位上に加うとあります。 醍醐天皇の時代延喜式が定められるゝに当り、名神大社として登載されております。 その后明治に入り、6年郷社、12年県社に昇格致しました。社殿については御霊社は応永30年(皇紀2083年、西暦1423年)に建てられたものです。本社並びに山野口神社は元禄9年(皇紀2356年西暦1609年)の建立です。 社務所は元禄年中の建立と伝えられています。 社頭掲示板 |
まちの文化財(8) 養父神社の狼像 養父神社に初詣に行かれた人も多いことでしょう。養父神社の拝殿の前に、尻尾を高く上げた狼の石像があることをご存じでしょうか。 二対の狛犬が並んでいるように見えますが、一対は明治26年(1893)に建立された狼の石像です。口を開けているのが雌で、閉じているのが雄です。 日本狼は明治38年(1905)に絶滅しましたが、養父神社には石像として残っています。田畑を荒らす猪や鹿から作物を守る益獣として、狼を守り神にしています。 今から190年前、文化11年(1814)、伊能忠敬は養父市内を測量しました。旧暦の正月16日の測量日記には「但馬国養父郡出領、養父市場村出立。藪大明神前、(社)印迄、五町四十五間。神前迄三十間。式内夜夫坐(しきないやぶいます)神社」とあります。70歳の伊能忠敬は真冬の雨の日に、養父神社を訪問しました。 話は変わりますが、徳川家康の旗本になった朝倉氏と八木氏が、江戸幕府に提出した系図が残っています。そこに朝倉高清と養父神社の係わりが書かれています。 鎌倉時代の関東に、大きくなると210cmを越える白猪が暴れていました。源頼朝は、朝倉高清にこの白猪退治を命じました。そこで但馬に帰って7日間、養父神社にこもって祈願し、神前から鏑矢(かぶらや)をもらいました。この矢で白猪を退治して、源頼朝の家来のなれたという話です。 暴れまわる白猪は、狼が守る養父神社から授かった矢の霊力によって退治することができました。狼は、養父神社では今も田畑の作物を猪や鹿から守る良い獣なのです。 グリム童話「赤ずきん」に出てくる狼は、人間をたべてしまう怖い狼ですが、養父神社の狼は人を助ける神様の使いなのです。 養父市HP |
養父神社 養父神社は崇神天皇30年(皇記594年)(西暦前66年)御鎮座になり約2000年となります。 御祭神 倉稲魂命 米麦 養蚕 牛馬 に秀でられた神様 少彦名命 薬草 治病 に秀でられた神様 大巳貴命(大国上命) 国土開発 統治 に秀でられた神様 谿羽道主命(値馬道主命) 国民生活の安定の方途に秀でられた神様 舶帆足尼命 地方政治に秀でられた神様 沿革 仁明天皇承和12年に無位養父神を従五位下に叙し清和天皇貞観11年従五位上養父神を正五位下に叙され16年正五位上を加うとあります。 醍醐天皇の時代延喜式が定められるるに当り養父神三座を名神大社として登載されています。 その后明治6年郷社となり12年4月県社に昇格致しました。 社殿については御霊社は応永30年(皇紀2083年)(西暦1423年)に建てられたものです。本社並に山野口神社は元禄9年(皇紀2356年)(西暦1690年)の建立です。 社務所は元禄年中の建立と伝えられます。 境内地並社有地数千坪にして四季の花咲き乱れ風光明媚にして参拝者多く交通安全厄除開運祈願所、結婚式場として現在活用されつつあります。 公式HP |