日下部氏の祖神として表米と称した人物を祀つたものと考えられる。 |
赤淵神社 創建 察神である赤淵足尼命が亡くなったとき、継体天皇25年(531)とされている。「式内」というのは延喜式神名帳(延喜901-923)に記載されている神社のことで、古くからあった神社であることがわかる。 伝説 常色元年(大化3年・647)新羅の国が多くの軍船をしたてて但馬の海岸に攻め寄せてきた口表米親王は、天皇の命を受け丹後国与佐郡白糸の浜に迎え討ってこの軍を討ち敗った。 勝ちに乗った親王が船を集めて、逃げる賊を海上に追撃するうち、突如として大嵐がやってきた。 大風、大波が打寄せて親王軍の船はことごとく帆柱は倒れ、舵は折れ、船は砕け、今にも沈没しそうになってしまった。そのとき、不思議なことに、海底から数千の「鮪(あわび)」が浮かぴ上がり、沈みかけた船を持ち上げ、壊れた所をつなぎあわせ、たちまちのうちに船をもとどおりに直して危機を救ったという。 親王は大いに勢いづいて賊を討ち、隠岐の国のあたりまで追い払った。 凱旋してくる途中、諾寄のあたりまでくると風が逆風となったので、鳥志島に入って順風を待っていたがなかなか順風とならなかった。ところが、またまた鮪が数知れず浮かび上がってきて親王軍の船を持ち上げ、さらに美しく飾った大船が一艘現れて、親王の船を先導して丹後国与佐郡浦島港に入港した。 親王がその船に行ってみると、人は誰もおらずただ龍宮に住んでいるといわれる九穴の大飽がきらきらと光を放っていたという。 親王はそれを見て、危機を逃れ戦いに勝つことができたのは皆神の御加護であり、鮑は神のお使いであったと悟って、大変喜んで神に感謝の祈りを捧げた。そして、その鮑を丁寧に衣服に包んで鎧箱に納め、大事に持ち帰って赤淵神社の下の淵に放し、神社にあつくお祭リしたということである。 このことを記念して、日下部の子孫は鮑を大変大事にしてお察りし、決して鮑を食べないといわれている。 本殿 室町時代(1336-1573)初期建立 国・重要文化財 (昭和45年6月17日指定) 拝殿の奥、覆屋の中にある。三間社流造・こけら葺、桁行4.8m梁間3.1m、正面と両側面に高欄付縁をめぐらせている。内部は内陣と外陣に分かれ、正面には格子をはめ、中央に階段を設けている。蟇股・懸魚・妻窓などに建築当時の様式をよく残している。また、妻飾り下の板飾り・両妻の妻戸が開く形式などは他にあまり見られない珍しい建築様式である。建物に付属して指定されている棟札によると、元和8年(1622)、正保5年(1618)、寛文5年(1665)、元禄7年(1694)、元文5年(1740)、宝暦10年(1760)、天明5年(1785)と度々修理され、平成4年3月履屋を含めた平成の大修理が完了した。 勅使門 元禄7年(1694)建立 但馬では数少ない、立派な勅使門である。四脚門様式で欅材を使用し、透し彫欄間や鳳凰彫刻など華麗な装飾がほどこされている。軒の出が深く、どっしりとした風格がある。本殿同様度々修理されている。 楼門 宝暦2年(1752)建立 四脚門様式、棒造り、2階部分には高欄をめぐらし、勅使門と同じく透かし彫りや彫刻で華やかに飾られている。 2階には大般若経を蔵していたといわれる。 その他 拝殿・渡り殿・幣殿・摂社・隋神門・舞殿・神饌所・社務所等の建物が配置されている。 赤淵神社の別当寺(神社の事務・統制に当たった寺のこと)であった旧神淵寺(天台宗'→真言宗)の堂で、中に阿弥陀如来(町指定文化財)・大日如来観世音菩薩などを祭っている。赤淵神社に関する古記録などはすべてこの神淵寺に伝わっていたものである。 堂前には江戸時代中期作の優れた枯山水の石組みがあり、境内の隅には三重塔の心礎であったといわれる礎石も残っている。 いろいろな面で古い神仏習合(神と仏をいっしょに祭る)の名残りを強く留めており、これも他にあまり見ることのできない珍しい遺構である。 祭神 大海龍王神 海の神様 赤淵足尼神 赤淵足尼命は、開化天皇の皇子彦座工の子孫で但馬国造(但馬の長官)であった。その孫日下部宿禰が但馬国造に任ぜられたときに神社を造って先祖赤淵足尼命を祭ったのが赤淵神社の始まりといわれている。 表米宿禰神 表米宿禰は日下部宿祢の孫で、墓は久世田加納丘にあると伝えられている。 *日下部の子孫は、その後但馬各地に散らぱって、中世・近世と続いて繁栄し、但馬の歴史上に度々登場することになる。赤淵神社が現在まで存続しているのも、これらの人々の援助によるところが大きい。 社頭掲示板 |
赤淵神社 赤淵神社の祭神は、大海龍王神、赤渕足尼神、表米宿彌神の三神です。赤渕足尼命は表米宿彌命の祖神です。 神社略記によると大化元年(六四五)、表米宿彌命が丹後、白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐した際、沈没しかけた命の船が、海中から浮かび上がった無数のアワビに助けられたので、命はそのアワビを持ち帰り、赤淵神社に祭ったとされています。大海龍王は海神で、アワビを使い難を救う神であるといわれています。 その後、赤淵神社の祭礼にはアワビの神事が行われ、近隣では今でもアワビを食べない風習が残っています。 社頭掲示板 |
赤淵神社 赤淵神社勅使門 この門は、勅使参向の際に用いられたものである。元禄7年(1694)に、八木城主八木勘十郎宗織が大願主となって再建し、寛政9年(1797)に修理したと伝える。円形の本柱に、前後2本ずつの控柱を立てた四脚門形式で、材質は欅が使用されており、切妻造、桟瓦葺である。扉の上部に見られる鳳凰の透し彫りや、木鼻、蟇股などの建築細部に見るべき特色があり、但馬地方では数少ない江戸中期の建物である。 赤淵神社本殿 本殿は、室町時代初期に建てられたもので三間社流造、こけら葺、桁行4.8m、梁間3.1m正面と両側面に高欄付縁をめぐらせている。身舎内部は内陣と外陣に分かれ、正面に格子をはめ、中央には階段を設けている。再三改修のあとはあるが、蟇股、懸魚、妻窓などに当時の建築様式を残している。 社頭掲示板 |
赤淵神社 赤淵神社由来記 仰 赤淵大明神 人皇始以来第九代開花天皇御代也 是時皇子四道将軍祀彦坐王 是粟鹿大社之流也 彦坐王為但馬國造子孫代々國造而 司神事執行政務開拓國土劃治水振興農業以愛民生偉業烈烈恩澤普及 自是營一祠祀歴代國造赤淵大明神是也號日下部表米宿禰命 赤淵宿禰五世孫而忠功有奉聞 丹後丹波但州三箇國可為守賜宣使本國也因在所窮見給枚田郷内高山麓淵有之淵尋赤淵云 平城守東向赤淵大明神奉祝之宮也 赤淵神社合祀久世田庄勘納岡表米明神奉祝 然而惣名日下部姓始祖神表米御子在所分附給 朝倉 絲井 奈佐 日下 八木 本山 太田垣 宿南 姓是也 属者尊崇殊厚是皆在所名也 日下部表米流丙与繼為子孫不依上下男女可奉仰 昭和四十五年三月二十七日赤淵神社為國重要文化財 枚田郷赤淵神宮司佐宗氏同郷地頭枚田氏始氏子連之厚思奉謝 茲来裔氏旌考證家傳祈念之建碑傳永 世者也 昭和四十五年十月吉日 社頭石碑 |