天平9年(737)『但馬国正税帳』に押坂神とあり『新抄格勅符抄』にも忍坂神の神戸が但馬に二戸とされている。この押坂神は延喜式に見えないのでこの神社が兵主神社となったとの説もある。 寛永10年(1633)創立との説もあり、これは山東町森の八幡宮の地より現社地に移つた時とも推測される。 |
兵主の神 延喜式神名帳に登載されているいわゆる式内社に列した兵主神社が全国に十七社あるが、そのうち七社が但馬国に鎮座されており、その他に式内社でない兵主神社が七社もあることは他の地方には見られないことである。 「兵庫県の歴史」では、兵主の神はもと中国の山東省に見られる八主神、すなわち、天主、地主、兵主、陰主、陽主、月主、日主、四時王の一つである異国の神であって、弓月君(ゆずきのきみ)が将来した神と考えられている。 したがって、兵主神社を祀るところには弓月君系の帰化人の存在が予想される。 つまり、但馬には新羅系の天日槍(あめのひぼこ)のほかに、弓月君系の帰化人も多くいたものと考えられる。 また、天日槍が一時住んでいたといわれる近江にも兵主神社が多く、天日槍と兵主神社には何らかの関係があるものと推論し、この点から、兵主神を外来神とみる説をとっている。 また一説には、大国主神は、またの名を八千矛神(やちほこのかみ)といい、葦原の中津国を平定するに当たり、広い矛をもって邪神を誅し、治功をたてられた神といわれ、弓矢を司る武神として崇敬されてきた。このように日本の武神である大国主神や素盞鳴尊を兵主神として奉斎したものといわれている。 平安初期清和天皇の貞観年間(896)に新羅船が博多に侵冠したことがあり、これに対する防衛祈願から日本の神の風神、武神を兵主の神に改名したとする説もある。 「但馬国における神社鎮祭の特異性の考察」 |