狩野川西岸近くに鎮座する浅間神社に合祀されている。 淺間社は延暦年中坂上田村麻呂によつて創建され、社傳でば建仁3年(1203)に現社地に奉遷された。 天保2年(1831)10月旧地の社殿焼失につき宿内淺間神社に相殿となった。 |
由緒 丸子神社は沼津市内では由緒ある古い神社であります。当神社は第六十代醍醐天皇の延喜式神名帳に所載する『式内神社』であり第十代崇神天皇の御代に創建されたといわれております。 旧社地は駿河国沼津堂敷免(現 沼津市丸子町)に始めて奉斎鎮座されましたが、明治10年12月に現在の浅間神社に御遷座いたされ一扉二社となったのであります。 当神社は第六十二代村上天皇の天暦年間には天下太平御祈願所、第九十六代御醍醐天皇の建武2年には武運長久永代祈祷所を仰付けられ、くだって明治元年10月7日には明治天皇が当地を御通輦のみぎり官幣使を御差遣になされたご由緒があります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
由緒 浅間神社は第五十代桓武天皇の御代延暦20年坂上田村麻呂が東征凱旋のおり、狩野川の右岸(現 沼津市宮町)に始めて奉斎したといわれており、その後第83代土御門天皇建仁3年に現在地浅間町に御遷座いたされました。 当神社は参勤交代の折、諸大名の多くが参拝して幣帛を献じ武運長久・道中安全を祈願された御由緒があり、また古くから縁結び・安産の神として地域から厚く信仰されております。 御例祭は毎年9月15日に行なわれ、遠近にも浅間祭として有名であります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
「丸子神社」・「浅間神社」 浅間さん」と親しみ深い尊称で古くから地域の皆様に称えられておりますが、本来の御号は「丸子神社」・「浅間神社」と定められており、一扉二社という形でお祀りされています。 毎年9月15日の例祭並びに例祭後の日曜日に行われる神輿渡御は氏子崇敬者により盛大に斎行されます。 また、6月30日の夕刻に斎行される「夏越大祓式・輪くぐり式」は2,000人を超える参拝者で賑わいます。 また、境内には色鮮やかな早咲きの桜があり、3月上旬から彼岸に開花し、ソメイヨシノより一足早く春の訪れを知らせてくれます。 丸子神社 丸子神社は「金山彦尊」をお祀りする神社で、剣・鏡・鋤・鍬を鍛える守護神とされ、鉄工業の進歩発展に広く御恵みを御授けになられました。 延喜式神名帳(西暦927年)に所載される「式内社」であり、その創建は第10代崇神天皇(紀元前97年〜30年)の御代とも伝えられ、駿河国沼津堂敷免(現 沼津市丸子町)に奉斎されました。 第62代村上天皇、第96代後醍醐天皇の御代には天下泰平・武運長久の御祈祷所を仰せ付けられましたが、江戸時代の火災により焼失し、浅間神社に御遷座され一扉二社という稀有な形式で御鎮座されております。 なお、現在は再建され、丸子町、浅間町、どちらにもお祀りされています。 浅間神社 浅間神社は容姿端麗な女神とされる「木花開耶姫命」をお祀りする神社で、縁結び・安産・子育ての守護神として尊崇を受けております。 その美しい姿から桜をあらわす神様であり、富士山の神様とも伝えられております。 富士山の恵みに感謝すると共に、噴火の鎮護として篤く信仰(富士山信仰)されておりましたが、延暦20年(西暦801年)、坂上田村麻呂が東征凱旋のおり、狩野川の右岸(現 沼津市宮町)に浅間神社として奉斎され、建仁3年(西暦1203年)に現在の浅間町に御遷座されました。 近代では明治天皇が御通輦のみぎり官幣使を御差遣になられております。 公式HP |
丸子神社 浅間神社 御由緒 丸子神杜は「金山彦尊」をお祀りする神社で、剣・鏡・鋤・鍬を鍛える守護神とされ、鉄工業の進歩発展に広く御恵みを御授けになられました。 延喜式神名帳(西暦927年)に所載される「式内社」てあり、その創建は第10代崇神天皇(紀元前97年〜30年)の御代とも伝えられ駿河国沼津堂赦免(現、沼津市丸子町)に奉斉されましたが、江戸時代の火災により焼夫し、浅間神杜に御遷座され一扉二社という、稀有な形式て御鎮座きれております。 浅間神社は「木花開耶姫命」をお祀りする神社で、縁結び・安産・子育ての守護神として尊崇を受け浅間さまと親しまれております。 容姿端麗な女神てあり、富士山の神様とも伝えられ、富士山の恵みに感謝すると共に、噴火の鎮護として篤く信仰(富士山信仰)されております。 延暦20年(西暦801年)狩野川の右岸(現沼津市宮町)に浅間神社として奉斉され、建仁2年(西暦1203年)に現在の浅間町、この地に御遷座されました。 社頭石碑 |
丸子神社 丸子は末里古と訓べし○祭神金山彦命、(風土記)○沼津駅に在す、(参考)例祭月日、○惚國風土記五十六下残欠云、薦河国薦河郡、鞠込(或丸子、或圓子、)鞠込神社、去來穂別天皇御宇4年癸卯、所祭金山彦也、神貢百束、 神位 國内神名帳云、正五位下麻留天神、 連胤云、当社なるべし、 神社覈録 |
縣社 丸子神社 縣社 丸子神社 郷社 淺間神社 祭神 金山彦命(丸子神社) 木花開耶姫命(浅間神社) 合祭 大山祇命 火産靈神 豊受比売命 建速須佐之男命 丸子神社創立年代詳ならす、但し伝へ云ふ、式内九子神社なりと、新風土記に云く「再拝記に、沼津宿に九子大明神と甲す是なりと云り、云々」丸子神社は延喜の制小社に列ぜられ、諸郡神階帳に、正五位下麻留天神と見えたり、元と沼津駅を距ること西五丁の田中にありしを、中古今の地即淺間神社に奉遷し、当社地に小祠を営み、今神輿御旅所とす、古へは大社にして、今に当社地附近に神樂免舞台等の字ありと、明治元年御東幸の際、同年10月7日官幣を奉らる、次いで6年3月郷社に列し、同12年縣社に昇格す。 神社覈録に、丸子は未里古と訓べし○祭神金山彦命(風土記)○惣国風土記五十六下残欠云、薦河國薦河郡、鞠込、(或丸子、或圓子)鞠込神社、去来穂天皇御宇4年癸卯、所祭金山彦命也、神貢百束」などありて、明細帳所載の祭神と一致す。然れども神名帳考証には日臣命と載せり、所在地に縁故なき祭神よりも、或は後説佳なるべきか、尚後考を挨つべし、 神名帳考証に云く「丸子神社今云鞠子宿、駿東郡去沼津北十町許、日臣命、姓氏録云、仲丸子、日臣命九世孫金村大連之後也、按大伴建日連、随倭武命、平東国、 淺間神社、元と富士淺間社と称す、創立年代詳ならず、但社家の伝に云く「当社は延暦年中坂上田村麻呂東征の時の鎮座にして。寛治年中、源義家造営し、後ち建仁3年9月、今の地に奉遷云々」先是当町狩川の右字宮町に鎮座あらせらる、社領、往古の事は詳なちずといへども、文禄2年、城圭中村彦左衛門若干を寄進す、寄進状今に蔵す、次いで松平周防守、長野九左衛門。当社を崇敬すること至らざるなかりしが、慶安2年8月17日、徳川家光朱印十石六斗を寄連す、明治6年3月村社に列し、同12年7月郷社に昇格す。 社殿は本殿、幣殿、相殿其他神饌所、社務所等を備へ、明治10年の再建たり、本殿は元と一扉なりしが、是時一殿二扉とし、丸子神社を併祀せりと、境内968坪(内691坪官有地第一種、他は民有地第二種)あり、又39年中一反四畝十八歩を淺間神社境内に編入せらる、40年12月山神道の山神社、秋葉神社を合併し、翌41年5月当町下川原神社を合併す。 明治神社誌料 |