富知六所浅間神社
ふじろくしょせんげんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】富知神社 駿河国 富士郡鎮座

   【現社名】富知六所浅間神社
   【住所】静岡県富士市浅間本町5-1
       北緯35度10分1秒,東経138度40分32秒
   【祭神】大山祇命
       (配祀)木花之佐久夜比売命 大山咋神 深淵之水夜禮花神 阿波乃盗_ 高おか神

   【例祭】5月3日 例大祭
   【社格】
   【由緒】孝昭天皇の御宇富士山山腹に創建と伝
       延暦4年(785)に現在地に遷座
       大同元年(806)富士下方五社を勧請する際にそれらの首座と定められた
       弘仁2年(811)正四位
       宝暦12年(1762)本殿造営
       明治5年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

吉原第一中学の北、街中に鎮座する。
富知六所淺間神社が式内社を称するようになつたのは、明治に入つてからのことである


由緒

岳南総鎮守 富知六所浅間神社
富知六所浅間神社は通称三日市浅間神社と呼称されその創建は人皇五代孝昭天皇の御宇にして崇神天皇が建沼河別命を東国に御派遣の際、命は当神社を崇敬の余り奏聞して、勅幣を奉られ、爾後御代々このことが続けられ、平城天皇の大同元年五社浅間を勧請するに当り、五部の大磐若経を納め給いし時に当神社を首座とし、特に唐本を寄せられた。
嵯峨天皇弘仁2年正四位に叙せられ、中宮の後安産の御祈願を奉仕以来、勅願所と定められ事変のあるごとに仰を蒙り、寛保年度の調書に依れば御朱印、其他社領八百八石、外に別当領六十六石とあり富士山麓に於ける大社である。
旧伝法、島田村、吉原町、今泉村、元吉原村、鷹岡町、大渕村の七ケ町村の大氏神として崇敬せられ、町村合併後は旧吉原市の大氏神社として広く崇敬をあつめ有識各位の特別なる御尽力により、愈々御社頭の隆昌を見た。商工業の発展、家庭守護、安産守護の神として信仰があつい。又境内に生繁る樹齢千年を数ふる天然記念物の大樟が、古くより縁結びと長寿の信仰をあつめている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




御造営趣意

当神社の創建は第5代孝昭天皇2年6月10日にして、延暦4年(785)に富士山腹より当地に遷し祀られたと伝えられ、第52代嵯峨天皇中宮のご安産祈願を奉仕してより以来勅願所として国家安泰の祈祷が執り行われ、江戸時代には社領808石を有し代々厚き崇敬を寄せられてまいりました。
この永い歴史と信仰が窺われる中、江戸時代中期(宝暦12年・1662)にご造営された現在の本殿をはじめとする神殿は、永い歳月を経た風雨による傷みに加え、想定されている東海地震への備えも施せぬ程老朽いたしました。
このたび当神社のご祭神が富士山中より当地へご遷座されてより1220年(平成17年)また、富士浅間五社が勧請されてより1200年(平成18年)の佳節を迎えるに至り、いよいよ神殿ご造営の事業を開始する運びとなりました。(以下略)

社頭掲示板



富知六所浅間神社

『駿河国風土記』に「不二神社 大山祇之命也 深待彦天皇二年丁卯六月之旬始祭之」が載っており、社伝も孝昭天皇2年(前474)6月10日の創祀としている。式内社「富知神社」の論社。
社伝によると、当初は富士山中で祀られていたが、噴火の影響で延暦4年(785)現在地へ遷座。崇神天皇御代、四道将軍として東海道へ派遣された建沼河別命が崇敬し、奏聞して勅幣を奉じた。
くだって大同元年(806)に下方五社を勧請・整備したさい、平城天皇から唐本の大般若経が寄せられ、5社の首座に定められた。弘仁2年(811)正四位に叙せられ、嵯峨天皇皇后の安産祈願を奉仕。以来、国家安泰を祈祷する勅願所に定められたという。

富士おさんぽ見聞録



富知六所浅間神社

創建は、第5代孝昭天皇の時代と伝えられ、第 10代崇神天皇が四道将軍を派遣の際、当神社は厚い崇敬を受け勅幣を奉られました。第41代平城天皇が大同元年(806)に五社浅間を勧請されるにあたり、当神社は首座と定められ、弘仁2年(811)、嵯峨天皇の中宮安産祈祷後は、勅願所として事変あるごとに国家安泰の祈祷が行われました。

静岡県神社庁



富知六所浅間神社

主祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)
相殿 木花之佐久夜比売命(このはなのさくやひめのみこと)
   大山咋神(おおやまくいのかみ)
   深渕之水夜禮花神(ふかぶちのみずやれはなのかみ)
   阿波乃盗_(あわのめのかみ)
   高霊神(たかおかみのかみ)
『富知六所浅間大神』と総称する。
例祭日 5月3日
社格 別表神社
人皇5代孝昭天皇2年富士山山腹に御創建と伝えられる。第10代崇神天皇が建沼河別命を東国に御派遣の際、当神社を崇敬のあまり奏聞し勅幣を奉られ、爾後代々続けられた。
その後富士山の度重なる噴火のため第50代桓武天皇延暦4年(785年)に現在の地に遷座し第51代平城天皇大同元年(806年)、五社浅間を勧請するにあたり当神社を首座と定めた第52代嵯峨天皇弘仁2年(811年)、正四位に叙せられ中宮の御安産祈願を奉仕した日本最古の安産祈願所であり、以来勅願所と定められ皇室の御安泰はもとより国家安泰の御祈願が行われた。
寛保年度の調書に獅朱印其他八百八石外に別当領、六十六石とあり、朝廷及び武家諸候が当社に寄せた信仰の厚さを窺い知ることができる。
また当神社六柱の御祭神は五社浅間・富士山本宮浅間大社の御祭神であることより岳南総社と広く信仰を集め、現在は神社本庁の別表神社に列せられ富士市の大氏神として連綿と崇敬を仰いでいる。
現在の御社殿は約250年ぷりに改築され、平成27年10月に遷座祭を御奉仕、その後解体整備工事を終え平成28年6月に竣功祭を斎行した。

社頭掲示板



郷社 富知六所淺間神社

祭神 大山祇命
相殿 木花立佐久夜比売命 深淵之水夜禮花神 阿波之盗_
   大山咋神 高おかみ神
創立年代詳ならず、但、傅へ云ふ、景行天皇の御宇、日本武尊東征の時の勧請にして、式内社富知神社也と、然れども、徽すべきものなし、古来大社にして、今川、武田、豊臣の諸氏相次いで崇敬せし、」と、旧別当東府院所蔵の文書に見えたり、明治4年以前は、国府浅間神社奉幣使國方と称する社職、毎歳4月11日、古例に依りて祭祀を行へり。旧朱印高百九十石あり、諸社御未印写に云く、「浅間六所神領、駿河国富士郡下方郷内四百九十石事、並山林竹木諸役等免除、任寛永18年6月28日、先判之旨、別当東泉院進止、永不可有相違者、祭礼修理料供僧社人支配等、如有来可沙汰、者也、
寛文5年7月11日」
明治6年3月郷社に列せらる。
社殿は、本殿、拝殿、向殿、其他神饌所、社務所を備へ、境内は1658坪(官有地第一種)ありて、老松巨楠森々たり、当社の摂社と称するもの五社あり。

明治神社誌料



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