星陵高校西に鎮座する。 倭文の社名は倭文布の生産に從事する倭文部によつて祀られたところから付けられたものであろう。 延喜主計式によれば、駿河・常陸二国のみの調として倭文31端がそれぞれ挙げられている。これらは祈年祭、神祇官祭神737座中「奠幣案上神304座」に倭文一尺が座別に使用されるほか、諸神事に用いられている。この駿河国から貢調される倭文布31端の中には、その多くが富士郡倭文神社の周辺に居住したであらう人々によつて生産されたものと思われる。 古来本殿はなく、現在は拝殿後方の3m四方の石垣の中に小石が敷きつめられ、榊が植えられている。 |
倭文神社 当神社は延喜式神明帳にある式内社で、又富士郡三座の一でもあり、日本最古唯一の織物、製紙の神である健羽雷神を奉祭する神社である。旧社格は村社であったが、昭和35年10月1日山神社、熊王山神社、第六天神社の三社を合併し宗教法人十三級神社として認証された。 古代高天ヶ原時代、当地に星神として君臨して居た香々背男が、貫戸、岩本付近の神々を糾合して、中央政府に反乱を企てたので経津主神と、武甕槌命は健羽雷神を遣して之を討滅せしめた。 以後、健羽雷神は、星山に永住し、織物製紙の業を興したので諸神の崇敬を集め当神社に祀られた。 元来当地方には、藤、三椏、楮等が山野に自生して居り加えて、清冽なる湧水も豊富であったので、かかる産業が必然的に発達する素地があったと解される。今日富士地方は世界的に有名な紙の産地として知られているが、その起源は茲に在るとされている。 社頭掲示板 |
倭文神社 社伝によると、創祀は神代にさかのぼる。いわく、当地に君臨していた星神・香々背男が中央政府に反乱を企てたため、経津主神・武甕槌命は健羽雷神を派遣して討伐させた。その後、健羽雷神は星山にとどまり、倭織・製紙を興して地域発展に寄与したため、ここに祀られた、としている。 この社伝のベースは『日本書記』の葦原中国平定の段。いわく、經津主神と武甕槌神は従わない神々を討ったが、星神・香々背男のみ従わせることができなかった。そこで2神は倭文神の建葉槌命を派遣し、これを服従させた――。 また、同書の皇極天皇3年(644)条に興味深い話が載る。 いわく秋7月、不尽河(富士川)付近に住む大生部多が、ある虫を「常世の神である。これを祀れば富と長寿を得られる」と里人にすすめ、巫覡らもこれを喧伝した。民は惑わされ、家財を投げ打ち、歌や踊りに明け暮れた。その損害は甚だしく、みかねた葛野の秦造河勝が大生部多を討伐した――。 かいつまめば、新興宗教が富士川付近に興り、その勢いを恐れた中央が攻め滅ぼした、という話。 このふたつの話、あらすじが似ているだけでなく、倭文が関わる部分も共通する。「香々背男討伐」に登場する健羽雷神および建葉槌命は機織の神(倭文神)であり、「常世の虫」に登場する秦氏は機織技術をもった倭文部の氏。そして倭文神社は倭文部が祀った社だ。 社伝は「香々背男討伐」を主題とするが、むしろ富士川という身近な名詞がでてくる「常世の虫」の方が関連はありそう。大生部多を討った秦造河勝の一族が星山に定住し、氏神の倭文神を祀った、と考えれば腑に落ちる(大生部多も倭文部とする説がある)。のちに葦原中国平定を付会、秦造河勝→健羽雷神(=建葉槌命)、大生部多→香々背男に置き換えたのかもしれない。 ちなみに「常世の虫」は、橘や曼椒に生まれ、長さは4寸余、大きさは人差し指ほど。色は緑で黒点があり、蚕に似ている、とある。おそらくアゲハチョウの幼虫ではないか、と考えられている。 富士おさんぽ見聞録http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-273.html |
倭文神社 倭文は之止利と訓べし○祭神天羽槌雄神歟〇星山村に在す、(参考)例祭、月、日、 類社 伊勢国鈴鹿郡倭文神社の條見合すべし 神位 國内神名帳云、正流五位下委文天神、 神社覈録 |