水庵原小学校の北西に鎮座する。 拝殿の後方一段高く流造の本殿がある。 社伝によると、景行天皇の御代。日本武尊東征のおりに、安倍郡神部神社に天照大神を祀り、当地に、豊受大神を祀ったのが当社の起こり。 豐由氣神社の鎮座地は、古墳群の南部に在り、庵原国造に関する神祀りの要地と比定される。 |
豊由気神社 郷社 豐由氣神社御由緒 祭神 豐受姫命 相殿 村社一ノ宮 祭神 木花開耶姫命 明治8年12月25日村社ニ列セラル 社格 明治8年12月25日郷社ニ列セラル 社地 清水市庵原町宮ノ後 社域 426坪 氏子 清水市庵原町 祭日 10月17日 神饌幣帛料庵原郡供進 明治40年6月21日指定セラル 由緒 謹テ舊記ヲ按スルニ今ヨリ凡1863年ノ昔 人皇第十二代景行天皇ノ御宇皇子日本武尊御東征ノ砌 廬原郷ニ豐積神社或ハ止由氣神社トシテ豐受大社ヲ祭ラセ給ヒ 同時ニ安倍郡神部神社ニ天照大神ヲ祭ラセ給ヒ即両宮ヲ廬原安倍ノ國ニ祭リ給ヒシヲ以ツテ二ノ宮と稱セリ相殿一ノ宮ハ後ニ至リ勧請セシモノナリ 境内神社 小里社 伊佐奈岐尊 山本社 御嶽大神 金谷社 金山彦命 新田社 保食命 小路社 保食命 八幡社 譽田別命 小外社 保食命 天神社 菅原道真公 山梨社 大山祇命 天王社 素盞嗚命 中村社 保食命 大歳御祖社 御歳神 下川原社 保食命 大門社 社頭掲示板 |
豐由氣神社 社伝 当社は、およそ1900年前の景行天皇の御代、日本武尊により創祀されたと伝わります。 未詳ですが、古くは止由氣神社とされ、駿河の二之宮とも数えられた御社になりましょう。御祭神は、本殿に向かって右扉の方は、主祭神である「豐受姫命(豐受大神)」、向かって左扉の方には「木花開耶姫命(一之宮)」が御鎮まりです。 個性的な「女神さまの御宮」となりますが、昔々少し北側にあった、村の一之宮である浅間神社を合祀したことから、「二之宮・一之宮」と一緒に御祀りされています。 旧社格は、郷社となります。 社風 神明鳥居をくぐると、流麗な拝殿・本殿が佇み、その北奥には古墳群や磐座と、古代の様子が残る静かな神域です。 一方の南側は、かつて広範な稲田であったこともあり、当時から大切な神祀りの要地とわかります。稲作と共に続いてきた、この御社の祈りは、御鎮まりの神宮の尊い神々にとっても、心地好さが現れるようです。 社名を国語で読むと、「豊かで神聖な食べ物の神さまの御社」となり、その氣風は現代でも受け取れます。 公式HP |
祭神追誌 豊受姫命ハ伊佐奈岐命ノ孫姫ナリ 日本武尊御東征ノ砌廬原郷ニ食物ノ神トシテ祭ラセ給フ 相殿一ノ宮祭神木花開耶姫命ハ大山祇命ノ姫ニシテ瓊瓊尊ノ妻ナリ古来ヨリ縁結安産ノ神トシテ祭リシモノナリ 尚ヲ境内神社ハ各町内ノ祭神ニシテ其ノ総テガ食物ノ神又ハ悪病除ノ神トシテ古クヨリ村内安全ヲ祈願セシモノナリ 社頭掲示板 |
郷社 豊由氣神社 祭神 豊受比売命 相殿 村社一之宮 祭神 木花開耶姫命 旧と豊玉明神、又は二之宮と称す、創立年代詳ならず、往古は大社にして、淺間本宮巡拝の者は、必ず当社へ参詣せりといふ、郷中の総鎮守にして、除地二石を有せり、命治8年2月郷社に列せらる、相殿一之宮は、年代不詳当社に同殿ましまし、元と淺間社とも奉称す、明治8年当社と共に村社に列せらる、 社殿は本殿、拝殿、其他社務所等を有し、境内は1852坪(官有地第一種)あり。 式社備考は当社を以て、式内豊積神社に充てたるを、式社略記之を否定せしが、当社明細帳亦断乎として、備考の説をしりぞけて曰く、 「駿河国式社備考に、この社を式内豊積神社として、種々考証を掲げたれども、何れも、偽風土記に依りたる説なれば、今之を採らず」 因みに記す、当社名及祭神、偽風土記に依りしものにあらざれば幸ひなり、る説なれば、今之を採らず」 因みに記す、当社名及祭神、偽風土記に依りしものにあらざれば幸ひなり、 明治神社誌料 |