由井小学校南、国道とJR線とに囲まれた丘陵地帯に鎮座する。 白鳳年間に創立。延暦10年(791)に豊受姫は稲荷社として遷宮。稲荷社は境内末社として本殿西に5社1棟で祀られている、これが本来の式社か。 豊積神社で正月3が日間行われる静岡県無形民俗文化財指定「豊積神社お太鼓まつり」の起源は伝承によると、延歴16年(797)征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂が奥州の蝦夷(えぞ)の反乱平定に行く途中に豊積神社に戦勝を祈願した。その帰路、勝利のお礼に3日3晩の祝宴を開いたのが始まりという。 |
由緒 創建は恒武天皇の御代延歴10年4月上旬初未の日、西暦791年で今を去ること1200年前である。延喜式神名帳(927年)で蘆原郡三座豊積大神とあります。駿河国神名帳に正五位位下豊積大神とあるのは当社のことで古くは豊積之社浅間大明神とも申し上げたのであります。天正2年、朝比奈双白より黒印、慶長5年金阿弥、慶安元年徳川家光、5代将軍綱吉、8代吉宗、9九代家重、10代家治、11代家斉、12代家慶、13代家定、14代家茂、各将軍より御朱印を賜る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
豊積神社 豊積神社由来 延喜式神名帳に「駿河国廬原郡豊積社」とあり、ここの地を町屋原と称するは、古代において物々交換の市場が営まれたところで社伝によれば第四十代天武天皇の白鳳年間ここに五穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えている。 平安時代に入り木花開耶姫を祀る浅間信仰が広く流布され、延暦10年(791)神主の夢想神託により木花開耶姫を祭神とし、豊受姫は稲荷社として境内社に遷宮された。 延暦16年、坂上田村麿が東征の途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その帰路戦捷報告に立寄ったのが旧正月一日とあって、ここに戦勝祝賀の宴が盛大に催され、大太鼓をくり出し三日二晩夜を徹して町内をねり歩いた、これが今に伝えられるお太鼓祭りの起源とされている。 昭和57年12月 由比町教育委員会 由比町文化財保護審議会 社頭掲示板 |
豊積神社 『由比町の歴史(昭和47年)』、『由比町史(平成元年)』は、『由比町の歴史』の印刷直前に発見されたという「文書」を用いている。曰く、白鳳年間に豊受姫命を勧請。延暦10年(791)4月、神主の枕頭に浅間大明神が現れ、社殿造営を指示するとともに、坂上田村麻呂の社参を予言。以降、木花佐久夜毘賣命を併せ祀るようになったとある。さらに同16年、坂上田村麻呂が東征の途次に社参し戦勝祈願。このとき夢想神託の話を聞いて朝廷に奏上、同年9月14日に勅使参向があり、官幣を奉じられ社号「豊積浅間」を賜ったとしている。そして『由比町の歴史』は、豊受姫命はいつしか境内社(稲荷社)に遷宮したのだろうと推測。境内掲示板もこれを引いており、現在では「社伝」にとってかわった格好。 富士おさんぽ見聞録 http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-209.html |
町指定文化財 大いちょう (雄木) 樹高 27m 太さ日通り3.6m 桃源寺雌木と共に夫婦いちょうと呼んでいる 豊積神社お太鼓祭り 延喜式内社豊積神社祭典(毎年1月1日より三日間)延暦16年坂上田村麻呂の東夷征伐の際この地て戦勝祝賀が催されたことに由来するといわれ歌詞歌曲とも独特のものである 豊積神社本殿 総欅流れ造り銅板茸き、延喜式内社の古式な風格を備えた社殿 検地帳由比郷御縄打水帳 天正17年(1589)己丑8月7日 日附の徳川家康によって行われた駿河領内の数少ない倹地帳である 社頭掲示板 |
豊積神社本殿 本殿は総欅銅板葺流造りで延喜式内社にふさわしい古式な風格を備えています、棟には内削ぎの置千木と鰹木を備え、均整のとれた建築です。 造営の記録は、棟札によれば慶長5年(1600)に建造、享保17年(1732)に北田村の大工松野藤四郎によって建て替えられ、現在の建物は社伝によれば文政8年(1825)に駿府町奉行社寺係の計らいで、現伊豆市土肥の宮大工砂間仙蔵父子と地元大工による建築です。 屋根は明治22年(1889)に静岡市鷹匠の銅工藤田惣七等により桧皮葺から銅板に葺き替えられました。 昭和28年(1953)に台風による損傷の大修理を行い現在に至っています、 平成19年3月 油井町教育委員会 社頭掲示板 |
豊積神社 豊積は止與豆美と訓べし〇祭神豊受大神、(風土記)○由井駅町屋原村に在す、(駿河志参考)、今豊積浅間社と称す、○惣国風土記五十四残欠云、駿河伊穗原郡豊積神社、(或止由気神社)日本武尊祭之地也、國中之二宮也、 神位 國内神名帳云、正五位下豊積天神、 神社覈録 |
郷社 豊積神社 祭神 木之花佐久夜昆売命 別殿 白髭神社 祭神 猿田彦命 山宮神社 祭神 大山祇命 日枝神社 祭神 大山咋命 速須佐之男命 稻荷神社 祭神 倉稲魂神 須賀神社 祭神 健速須佐之男命 磯前神社 祭神 大國主命 積羽八重事代主命 旧と浅間社、由井浅間豊積大明神、豊積浅間とも称せり、創立年代詳ならずどいへども、上古よりの鎮座なるべしと或書に見えたり、天正7年武田家より十二俵三斗四升、由比之淺間領寄進の事あり、次いで天正17年朝此奈隻白、慶長7年井出志摩守、元和6年井出藤右衝門等の文書に由井淺間と見ゆ、後ち徳川家光に至り、朱印十六石八斗由井淺間領(由比郷内)を寄連す、維新前4月初末日の祭典にあたりては、国府の浅間神社の神職数人参集して、神事を勤仕し、翌申日、富士淺間六所淺間の祭礼を勤め、酉の日当社に奉仕す、此時に当り、当社より国府の社人へ、掛魚(三尺三寸)鮑(九寸九ツ)を俎板の上に据えて出すを以て例とす、是時所定の魚なく、代の魚を出す時は、違例の故を以て相争のことあり、里人これをねだり祭といふ、旧朱印高六石八斗五升を有す、明治元年10月、御東幸の時、植松少將、勅使として参向、同6年3月郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿、其也神饌所等を具へ、境内は1215坪(官有地第一種)あり。 当社が式の豊積神社なりとは、既に当社明細帳にも見え、又古来の伝説ありしが如しといへども、今の學者意見を異にするものあり、 新風土記に云く。「再拝記に、町屋原村豊積浅間と申是なりとす、今世の人もしかいひ、その社にても然いひ伝ふ、云々、式杜なること紛れもなきが如くなれども、云々、菴原村に、里人一の宮と云社あり、豊玉大明神と称す、これや豊積神社ならんと思はるる由あり、云々、然れども、今町屋原なる淺間社を豊積の神社なりと云事は、いと古きことにて、近世にて言出したることにあらず」 駿河国式社略記に云く、「元禄、享保の頃の祝詞に、豊積大明神、式は豊積淺間大神など見えたれば、今は町屋原なる社と定めつ」 明治神社誌料 |