東西を山に挟まれた南斜面に鎮座する。 拝殿の後方、一段高い石垣の上に、垣に囲まれた本殿がある。 この地は庵原の国の中心地とされ、庵原国造によつて祀られた神社であったと思われる。 当地は「むかし神々の進発の御陣の跡」との伝承があり、日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けたとされる旧蹟の地である。 かつては日本武尊の東征に随伴した9万8千の人々を祀っていたことから「九万八千社」とも呼ばれていたといい、祭祀の時には9万8千の幣帛を奉納していたという。 東征の戦功によって吉備武彦命がこの地を与えられ、その子である意加部彦命が初代の廬原国造になった、ともいわれるので、その氏族が祖神として祀ったのが当神社であると思われる。 |
久佐奈岐神社 式内 久佐奈岐神社 鎮座地 清水市山切字宮平101番地 御祭神 日本武尊 合祀 弟橘媛命 吉備武彦命 大伴武日連命 膳夫七掬胸脛命 由緒 庵原川流域は古代には廬原の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原古墳群の立地する丘陵に囲まれたこの平野であります。 当社は人皇第十二代景行天皇の時代(西暦110年、約1884年前)に詔勅により皇子日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けたとされる旧蹟の地にあります。 創立年代は古くして不詳ですが、東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が後に其の功績により廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し日本武尊を祀ったのが創祀とされ、其の後お供として東征に随行した姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。 文献上の記録では風土記に第13代雅足彦(成務天皇)の元年(西暦133年、約1861年前)に官幣を奉るとあり、異本類聚六国史に清和天皇、貞観元年(西暦859年、1135年前)久佐奈岐神社従二位を授くとある。延喜式(平安時代初期の儀式や制度を定めた律令の施工細則)神名帳には廬原郡三座(久佐奈岐神社・御穂神社(三保)・豊積神社(由比))と記載されており、式内社であります。 昔は有度の草薙神社に対し、東久佐奈岐神社、或いは東久佐奈岐大明神等と称えられたこともありましたが、明治6年郷社に列せられてからは、今の社名となっております。 御神体 本殿に四柱の御神像が鎮座されており、これは朝廷より賜った貴重なもので開披してはならないとの言伝があります。 境内社 稲荷社 宇迦之御魂命 白髭社 武内宿弥 天満宮 菅原道真 雨之宮 天之水分神 国之水分神 津島社 須佐之男命 稲田比女命 金刀比羅社 金山彦命 大国主命 今宮社 素嗚命 稲田比女命 九万八千霊社 東征軍の御供の諸神 事比羅社 金山彦命 大物主命 少彦名命 雨之宮 志那都比古命 志那都比賣命 平成6年11月吉日 社頭掲示板 |
久佐奈岐神社 久佐奈岐は假字也○祭神日本武尊歟〇草谷村に在す、(参考)例祭、月日、○惣國風土記五十四残欠云、薦河伊穂原郡草奈岐神社、稚足彦天皇元年辛来口月始祭之、奉官幣○当國有度郡草薙神社あり、 類社 伊勢国度曾郡草名伎神社の條見合すべし 神位 国内神名帳云、正四位下草奈岐明神、 神社覈録 |
郷社 久佐奈岐神社 祭神 日本武尊 或云 九万八干神 相殿 弟橘媛命 吉備武彦命 大伴武日連命 膳夫七掬脛命 別殿 雨之宮 祭神 天之水分神 國之水分神 志那都比古命 志那都比売命 旧と東久佐奈岐社とも称す、創立年代詳ならずといへども、延喜の制小社に列せられたり、森宗芳云く、 「今奉称九萬八千神、尊東征時、供奉神奉斎社也、昔時、9月29日、供九萬八千本之和幣祭之、今略奉九十八本之和幣、社伝云、当社者、吉備武彦命勤請之由、惟、九萬八千之供奉神者、後配祀之者歟、云々」 と、旧除地高二石五斗二升あり、明治6年3月郷社に列す。 社殿は本殿雨覆、拝殿等を具有し、境内は744坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |