362号線から少し南に入る。市街地繁華街の中に鎮座する。 この地は「安倍の市」と称し、物資交流の中心地として繁栄したところ。 その守護神として「安倍の市人」らが奉斎したという。 元は有度郡加茂村に鎮座していたものを、中古、当地に遷したものともいう。 |
由緒 別雷神社(ワケイカズチジンジャ) 応神天皇の御宇4年4月、勅により創建され、御祭神は別雷神、玉依比売命を奉祀し、例大祭は5月14日である。 往古大歳御祖皇大神を祭ったと言う。大宝3年創市の「安倍の市」と称する物資交流の中心地として鎮座地附近は繁栄したところで、その守護神として「安倍の市人」らが奉斎したのである。 宝亀3年4月、光仁帝は堤中納言を以て官幣賜い疫病除け、雷除けの勅書を当社に賜い神階を進められた。 足利義政、今川、武田、豊臣秀吉、徳川家康等のの武将の崇敬篤く特に武田信玄は永禄年中、社殿を再建するに当り総瓦葺とし唐草の小口には悉く花菱の紋をつけ、破風の懸魚は欅材に武田菱の紋所を彫刻させるなど尊崇篤かった。 駿河国新風土記に「社中に府内の文庫あり、すべて町々に事ある時此処に集会し、是を議す」とあり、境内に駿府総町の会所があって、年行事(町頭)が交替で定められた期間ここで事務を執り、主として町奉行所の命令の下達を司った。 (府中は九十六ケ町)即ち府中の自治を当社内で運営したのである。 現在の社殿は昭和46年7月、明治維新百年記念事業として社殿、会館等のご造営を奉行したのであります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
郷社 別雷神社 祭神 別雷命 玉依比売神 相殿 保食神 旧と雷社と称す、又加茂稲荷社、別雷社、稲荷大明神、加茂大明神、雷神、雨社大明神ともいひ、近世大歳御祖皇神社と称せり、蓋、当社を以て式内大歳御祖神社とするよりの社号なるべし、創立年代詳ならず、但明細帳は、応神天皇4年とすといへども、仮風土記に拠りしものなるべく、随つて論ずるに足らざるなり、式社備考に拠れぱ。当社は元と有度郡加茂村に鎮座あらせられしを、中古今の地に奉遷し、後ち稲荷神社を配祭せるものにして、今に加茂村の住民、当社氏子と称して、祭典に預ると、社記に室町殿日紀を引いて、文安2年足利将軍より、有渡郡三澤郷、遠江国濱名郡坂上郷、三河国碧海郡谷踏郷を当杜に寄せしといへり、嘉吉元年5月、大田道灌当社に参詣あり、 「駿河の府に至りて、雷の宮健穂の高島の社などに、志の幣手向てよみはべりてよみ侍りける 太田持資 梓弓かへるたもとに諸葉草かけて祈らん加茂の神がき〔慕景集〕 武田家庚午(〇元亀元年)6月16日の文書に、 「今宿之内雷宮屋敷一間、并御神領五貫文之所、如前々相拘、建立ロ社、相当之祭等可相勤、但有申掠旨者、重而被聞召、可被御下知者也、仍如件 庚午6月16日 原隼人佐 市川備後守 奉之 国志に府中九十六町産神云云と見えたるが、明治8年村社に列せられ。後17年2月郷社に昇格す、40年雷神社を今の号に改む。 社殿は本殿、幣殿。拝殿、其他社務所等を具備し、境内334坪余(官有地第一種)あり、当社に穴山梅雪が自画自筆の三十六歌仙、及徳川家康の寄連に係る長光の太刀等今に蔵すること式社略記に見えたり、新風土記に、式内大歳御祖神社を賎機山の奈吾明神に擬するは非なり、当社なりとし、又之に雷同するもの一二なきにしもあらずといへども、學者一人として之に賛するものなし。蓋当社は元と有度郡の加茂村に在り、諸郡神階帳に、從五位上奈吾屋火雷地祇と見えたるは当社にして、奈吾明神を遷し奉れりとするなり。 明治神社誌料 |