小梳神社
おぐしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】小梳神社 駿河国 安倍郡鎮座

   【現社名】小梳神社
   【住所】静岡県静岡市葵区紺屋町 7-13
       北緯34度58分24秒,東経138度23分10秒
   【祭神】建速須佐之男命 奇稻田姫命
       (配祀)大己貴命 天照皇大御神 (合祀)金山彦命 金山姫命 石凝留命 猿田彦命
       『神名帳考証』木神

   【例祭】7月27日 例大祭
   【社格】旧郷社 横田駅の鎮守
   【由緒】明治8年2月郷社
       明治41年1月神饌幣帛供進神社指定同年7月県社
       昭和15年1月静岡市大火焼失
       昭和20年6月20日戦災で炎上

   【関係氏族】川辺氏
   【鎮座地】当初鎮座の地は現在の県庁の東側の地(今の青葉小学校校庭)
        寛永8年新谷町に仮宮を造って奉遷
        延宝3年(1675)現在の所(元加番の明屋敷)に遷宮

   【祭祀対象】安倍川の洪水をふせぐため
   【祭祀】江戸時代は「少將井五所大神宮」と称していた
   【社殿】本殿流造
       祝詞殿・神饌所・祭器所・中殿・拝殿・翼舎・社務所・手水舎

   【境内社】稲荷神社・宗像神社

駅前商店街の中にある。
元は駿府城の鎮守として城内の城代屋敷(今の青葉小学校校庭)にあった。
徳川家康は駿府城造営の時もこの「小梳神社」を城内に残したが、寛永8年(1631)大納言忠長新谷町(今の御幸町=現在「ペガサート」ビルがある辺り)に移し、さらに、延宝3年(1675)現在の所(元加番の明屋敷)に遷宮された。
当社は古代に於ては、安倍川の治水のため川辺氏により地神として尊祀、さらに、横田駅の開設によりその守護神となり、近世には、駿府城の守護神として徳川氏より崇敬された。
境内に少将の井と呼ばれる霊水がある。


由緒

祭神
建速須佐之男命、奇稲田姫命。
相殿
大己貴命、天照皇大神、金山彦命、猿田彦命。
境内社
稲荷神社 祭神 豊受比売神
(開運の神としての信仰があり、入学達成・選挙当選等の祈願が多い)
宗像神社 祭神 多紀理姫命、市寸島姫命、多岐都姫命。
(俗に出世弁天社と云われている)
由緒
当神社の創建は詳かでない。元の鎮座地は小梳と云い、後東川辺と改められた現在の県庁の東側の地である。
延喜式神名帳に「駿河国安倍郡小梳神社」とある。
諸郡神階帳に「正五位下安倍郡小楠神社。」と、又惣国風土記に「小梳公穀二百六十束、仮粟百十二丸、小梳神社所祭素盞(嗚)尊、奇稲田姫也、小梳後号東川辺、延喜式安倍郡小梳神社とあるは此社なり。」と記載されている。
大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来、その守護神として信仰され、貞観の頃から祇園信仰が全国に拡まるに連れて、当神社は少将井神社とも云われるようになった。
この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての信仰も加わった。
特に徳川家康が幼時今川家の人質として当神社の傍に住居し、日夜武運長久を祈願し、やがて元和元年大阪夏の陣が終り天下を平定してこの駿府城に止まるにあたり、代々徳川家の守り神伝わる大巳貴命、天照大神二神を小梳神社に合祀し少将井五所大神宮と称した。元和元年九月三日林道春に命じてこの由を社講に識さしめ奉献したものが現存している。これよりさき、慶長14年駿府城の城域拡張により、当神社はその郭内に入ったので駿河大納言は不敬を冐すをおそれ、且庶民参拝の便をはかって、寛永8年新谷町に仮宮を造って奉遷し、延宝3年現在の地に社殿を造営して遷宮した。
この造営の事にあたったのは城代松平右近太夫を始め町奉行大久保甚兵衛外、城番、番頭、一、二、三加番、目付其の他である。
翌延宝4年から隔年に神幸祭が行われた。
この神幸祭はぎおん祭といわれ、町奉行、与力、同心が警護にあたり、加番衆出し馬あり、駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物なと踟物を出し、「供奉の行列装束を粧い、引連なる踟物の結構は都山王神社の祭礼に彷彿たり。」と駿国雑誌に記載されている。
明治8年2月静岡県第四大区五ノ小区の郷社に列した。
明治9年と明治25年に静岡繁華街に大火があり、当神社も再度類焼の難に遭ったが復興し、明治41年1月神饌幣帛供進神社に指定され、同年7月県社に昇格した。
昭和15年1月静岡市大火により社殿工作物悉く失い、同年建築した仮社殿も昭和20年6月20日戦災により再度炎上した。
以後氏子関係者一同の努力により、本殿、祝詞殿中殿、拝殿、境内社、社務所、倉庫等の復興建築を完了した。
昭和37年3月7日、北白川神宮祭主、坊城神宮大宮司、佐々木神社本庁統理其の他の正式参拝があった。
駿河国三大地誌と高く評価されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑が当神社の境内にあり、静岡市文化財に指定されている。
昭和21年7月31日宗教法人令により届出をなし、昭和27年7月23日宗教法人法に依り宗教法人「小梳神社」設立の登記をした。
静岡県神社庁神社等級規定三級社である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




小梳神社

小梳神社は、俗に少将井宮(少将井社)、略して「少将さん」と呼ばれ、駿府城の守護神として崇められていた。
建速須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命、天照皇大神宮が祭神である。
徳川家康は、駿府城造営の時も小梳神社を城内に残したが、寛永年中(1624−43)には、城内から移転し、再度、延宝3年(1675)に現在の所に移された。
家康は、今川義元の人質として駿府にいた時、小梳神社境内でよく遊んだ思い出の場所として、この神社を大切にしたという。「なをりその記」によると、家康が人質として駿府に来た時、まず、この神社に立寄り、服装を改め、武運長久の祈願をして、その後に今川義元と対面したと伝えられている。当時、造営に当った城代は、松平左近大夫で、延宝4年6月、神輿渡御の神事がはじまった。例祭日の7月27日、この風習は、今なお、氏子の間に引継がれ、隔年に大神輿が市内を巡幸する姿は、夏の風物詩の一つとなっている。
明治以来、再三にわたる火災の被害に会ったが、その都度造営されるほど、地域住民が寄せる当神社の信仰には根強いものがある。
なお、境内には、平田篤胤選文による駿府の国学者新庄道雄の碑がある。
昭和60年1月
静岡市

社頭掲示板



霊水 少将の井

このあたりは古来湧水の清らかな所として知られており、昔は神社の前の流れを清水尻川と云いました。小梳神社は江戸時代は「少将井社」と称し『本殿の下に井あり夫婦和合の霊水湧き出す』と云い伝えられています。
この水は境内の井戸から汲み上げたもので病気平癒、健康増進の霊水として知られ地元のみならず全国各地からこの「水取り」に多数来社されます。

社頭掲示板



小梳神社

祭神
建速須佐之男命 奇稲田姫命
相殿祭神
大己貴命 天照皇大神 金山彦命 猿田彦命
由緒
当神社創建の年代は詳かでないが静岡市では最も古い神社の一つである
元の鎮座地は現在の県庁の東南側の所であった その周辺一帯の地名を古くは小梳と云い後に東川辺と改められた 惣国風土記に「小梳神社所祭素盞嗚尊 奇稲田姫也 小梳後号東川辺 延喜式安倍郡小梳神社とあるは此社なり」と記載されている
大宝令の定めにより横田駅が設けられて以来はその守護神として信仰され貞観の頃より祇園信仰が全国に拡まるにつれて当神社は少将井神社とも云われ江戸時代には一般町民からは専ら「少将の宮」と称せられたようである
この東川辺の地に駿府城が築かれて以来は府城の守護神としての崇敬が加わり特に徳川家康が幼時今川家の人質として当神社の宮前町に居住し撫育につとめた祖母華陽院と共に日夜武運長久を祈願し後年家康が大阪夏の陣に勝利し天下を平定してこの駿府城に隠居するにあたり代々徳川家の守り神と伝わる大己貴命 天照大神二神を小梳神社に合祀し少将井五所大神宮と称し元和元年九月三日に林道春(羅山)に命じてこの由を社講に識さしめ奉献したものが現存している
これよりさき慶長十四年駿府城の城域拡張により当神社はその城域内に入った 駿河大納言忠長は不敬を冒すを畏れ又庶民参拝の便をはかって寛永八年に仮宮を造って奉遷し延宝三年に現在の地に社殿を造営して遷宮した この造営の事にあたったのは城代松平右近を始めとして町奉行大久保甚兵衛外城番、番頭、加番、目付等である
翌延宝四年から隔年に神幸祭が行われた この神幸祭はぎおん祭といわれ町奉行、与力、同心が警護にあたり加番集より出し馬があり駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物など踟物を出し駿府全域の町々を巡行した 当時のもようを駿国雅誌には「供奉の行列装束を粧い引連なる踟物の結構は都山王の祭礼に彷彿たり」と記されている
明治8年2月郷社に列し明治40年7月県社に昇格した
昭和15年1月静岡市大火により社殿工作物を悉く失い同年建築した仮社殿も昭和20年6月の戦災により再び炎上したが昭和25年以来本殿・社務所・手水舎其他現在の建物を順次復興建築した
昭和37年3月7日北白川神宮祭主様が伊勢神宮の坊城大宮司、神社本庁佐々木統理を伴って正式参拝された
例祭日 7月27日
新庄道雄の石文
駿河国三大地誌の一と高く評価されている「駿河国新風土記」の著者新庄道雄の碑が当神社境内にある 平田篤胤の撰文で静岡市文化財に指定されている

社頭掲示板



小梳神社

小梳は乎氣豆利と読り〇祭神素戔鳴尊、奇稻田姫、(風土記)○浅畑北村に在す、(参考)例祭月日、○惚国風土記五十五残欠云、薦河安倍郡小梳神社、所祭素戔鳴尊興奇稻田姫也、小梳後號東川辺
神位
国内神名帳云、正五位下小楠天神、(楠は梳の誤か)

神社覈録



縣社 小梳神社

祭神 建速須佐之男命 奇稻田姫命
相殿 大己貴命 天照皇大神
元と少將宮と称す、少將は小梳の音続より移れる名にして、当社は式内の小梳神社なりと、(新風土記云。小梳を音読してセウシウと云ひ、八坂祇園の少將井宮に牽合して、旧名を失へるなり、云々)故に明治維新に至り、今の社号に改む、延喜の制小社に列せられ、諸郡神階帳には正五位下小梳天神と見えたり、創立年代詳ならず、旧地は城内の城代邸に当れり、寛永8年大納言忠長卿御殿を作り賜ひて、此社の傍なればとて、移して新谷町に暇に社を建て、後延宝3年紺屋町加番の明屋舗にうつして今の社を建つ、云々と、新風土記に記せり、尚此の事同三3閏4月25日大久保氏の達書にも見えたり、云く、
「少將之宮地之儀、公儂相叶。法榑寺隣先御加番屋敷絵図之通、替地被下置候間、褒作仕候氏子共、勝手次第普請取立遷宮有之様に可被致候、云々、松平左近殿玄関前之松之木、今度之宮普請御差加可然候、云云」
当時の遷移は、当市町々の心願に依りしものなりと、駿陽徽古に収載せる武田家判物に、少將宮供僧の免許状あり、又三河物語に、駿府の少將之宮之町云々、」と見え、徳川家康の御年譜細註に少將宮町の名見えたり、徳川家康封建以来の崇敬社にして、代々國主の崇敬厚く、且つ当地の鎮守たりしが、明治8年郷社に列せられ、同40年縣社に昇格す。
社殿は本殿、拝殿、其他社務所、皇學舎等を具へ、境内は637坪(官有地第一種)あり、当社には、林道春の書せる棟札ありと式社賂記に見えたり、当社が式社小梳神社なりとは多くの学者のいふ所なるが、近来当社を以て式の小梳にあつるは、歴史上何等の微証あるにあらずして、唯社家の説に依拠するものなればとて、疑を抱くものあり、後考を俟つ。

明治神社誌料



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