建穂神社
たきょうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】建穂神社 駿河国 安倍郡鎮座

   【現社名】建穂神社
   【住所】静岡県静岡市葵区建穂 271
       北緯34度59分15秒,東経138度20分37秒
   【祭神】保食神 天照皇大御神 (合祀)猿田彦命 須佐之男命
       日本武命『神名帳考証』

   【例祭】10月18日近い土曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】元慶2年(879)4月14日従五位下『三代実録』
       承元4年(1210)頃から馬鳴大明神
       明治6年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】此の地は奥宮の地
        服部村(羽鳥村)に「古社地」と称する里宮の跡地がある

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「馬鳴大明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造
       拝殿

   【境内社】庚申社

谷間の奥に鎮座する。
この地は建穂寺の跡。建穂寺は「神仏混淆」の寺として中近世大寺であった。
天平年間に建穗寺が建立された時、建穂寺は馬鳴大明神と称していた建穂神社の境内に割り込んだといわれているが、それは、建穗神社の里宮ではなく、奥宮の境内に建てられたのである。建穂寺が馬鳴大明神(建穗神社)の別当となり、奥宮の方は、建穂寺の発展と共に存続したが、里宮の方は廃社になつてしまつた。
服部村(羽鳥村)に「古社地」と称する里宮の跡地がある。
明治初年(1868)の神仏分離令につづく廃仏毀釈により建穂神社が残り、寺は廃寺となってしまった。


建穂寺の歴史

建穂寺は、白鳳13年(662)法相宗の道昭が草創し、養老7年(723)に行基が再興したと伝えられる。 創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として、天平7年(735)の「寺領寄進」の記録が寺の古さを特徴づけている。
 平安中期の『延喜式神名帳』に、建穂神社の名がみえ、「神仏混淆」の寺であった。安倍七観音の霊場でもあり、観音堂には珍しい稚児舞が伝わっていた。 (現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)
 鎌倉時代の高僧南浦紹明は、幼年期を建穂寺で修行した。 学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川 徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり廃寺となった。
 文化財の一部は、観音堂内に保存されている。。

社頭掲示板



建穂寺 (瑞祥山建穂寺)

建穂寺は、白鳳年間(654-69)に道昭法師によって開基された真言宗の古寺である。
奈良時代に聖武天皇の病気快復を願って彫った観世音普薩を納めた寺として知られている。その後鎌倉時代以後、久能寺と共に駿河文化の中心として大いに栄え、今川氏の時代や江戸時代には、保護が厚く、徳川家康から480石の朱印を受けたといわれている。しかし、かくも栄えた当寺も明治維新により徳川氏の保護を失うとともに、明治政府による神仏分離の宗教政策などにより多くの院坊も壊され、跡だけが残つている。また、明治3年の火災により、ほとんど焼矢してしまい、現在は再建された観音堂に納められている多くの仏像によって往時を偲ぶのみである。
4月1日から始まる浅間神社の甘日祭に奉納されている稚児舞は古くから建穂寺の舞として伝えられているもので、家康が駿府在城の頃、健穂寺に参詣した折、稚児舞を見て大変気に入り、崇敬厚い浅間神社へ奉納するようにと言われたことから始まり、今日まで伝承されている。
昭和60年1月
静岡市

社頭掲示板



建穂神社

祭神名 保食神 天照大御神 (合祀神)猿田彦命・須伊之男命
社殿工作物 本殿 9.98u 拝殿 9.5u
境内敷地 6883u
氏子戸数 520戸(平成26年現在)
由緒
当神社の創建は詳らかでない。三大実録に「陽成天皇元慶2年4月己卯授駿河国正六位上岐都宇命神従五位下」とあるは、この神社といわれる。
延喜式神名帳にも載せられ、諸郡神階帳に正五位下建穂神社とあり惣国風土記には「建穂神社所祭天照大神也」とあり、類聚国史には聖武天皇天平7年右大臣藤原武智麻呂御帳田奉納のことが見られる。
又吾妻鏡にもこの神社の神託の事が記され、又永正3年比叡山の僧存海が録した金玉集に、太宰貳が千本の桜を分けて当神社に植えしめその子従三位藤原有家朝臣が和歌を詠んで寄せられた事が書かれている。室町時代の慕景集にも、太田道真が参拝して幣を奉った事が載せられており、駿河国では屈指の名社であった。
建穂の語源はアイヌ語の「トキウ」で沼葺處の意であるという。
この建穂の開村は極めて古く、開村と共に創祀された当神社も亦静岡でも最古に属するものであろうと思われる。仁徳天皇の御代に帰化した秦氏族が諸郡に配置され、和銅年代には駿河国は全国有数の養蚕地となり、その絹帛の大部分は建穂・羽鳥等に住する服部(はとりべ)に依って産出されたのであるが、当神社は養蚕の神馬鳴の神と習合されて馬鳴大明神と称され服部の信仰を集めた。
天平年間秦氏族の信仰により建立された建穂寺が建穂神社の別当となり鎌倉時代には主客が転じて建穂神社を建穂寺の鎮守とするに至った。
こうして建穂寺は当神社を中心として堂塔を構えて盛大となり、今川・武田等より幾度か朱印状が贈られた。特に徳川時代に至り慶長7年12月8日家康より四百八拾石六斗の朱印が建穂寺に与えられ学頭以外に廿一坊を有した。
明治元年神仏分離の令により仏堂伽藍は一切取除かれて建穂寺は廃寺となり社僧は復飾して建穂神社は本来の姿に帰り、明治6年第五大区四小区の郷社に列せられ、藁科五ヶ村四十部落が郷社区域となった。
大正7年無格社白髭神社を合祀し、昭和11年無格社八雲神社を合祀した。大正15年現在の拝殿を建築した。昭和16年神饌幣帛料供進神社に指定された。
静岡祭浅間神社廿日会祭古式稚児行列の出発式は当神社にて奉告参拝の神事を行っている。
神職 小梳神社 宮司 森英樹
静岡市神社名鑑 昭和51年発刊

社頭掲示板



建穗神社

建穂は多氣保と訓べし○祭神天照太神、(風土記)○建穂寺村に在す、(参考)例祭月、日、〇惚國風土記五十五残欠云、薦河安弁郡建保、(或建穂)建保神社、所祭天照大神也、日本武尊之畢之所也、(以下虫食)
神位
國内神名帳云、正五位下建穂天神、

神社覈録



郷社 建穂神社

祭神 保食神 天照皇大御神
旧と馬鳴明神とも称せり、創立年代詳ならず、但し延喜の制小社に列せられ、諸郡神階帳に、正五位下建穂天神と見えたり、元と隣村羽鳥村に鎮座あらせられしが如し、式社備考に云く、
「古社地は隣村羽島村にあり、其村の西南の田疇、今に古松三株あり、里人今に明神森と云ふ、字山脇とも山腰宮城とも云ふ、泥中に巨石あり、鳥居跡、又五百歩許へだて大鳥居など、田の字に存す」
その後今の地に奉遷す、維新前は、建穂寺の仁王門正面一段高き所に鎮座あらせられ、建穂寺の鎮守神たりしが、維新後建穂寺を廃し、寺僧復飾し、改めて神地とし、社殿を造営し、更に社号を復旧して建穂神社とせり、吾妻鑑に云く、
「承元4年11月24日、駿河国建福(穂の誤)鎮守鳴大明神、去21日卯刻、託小児酉歳可合戦之由云々別当神主等注進之、今日倒来、相州披露之、仍可有御占歟之由、廣元朝臣雖申行之、将軍家(〇実朝)彼21日暁夢合戦事、得其告、非虚夢歟、此上不可及占、云々、被進御劔於彼社、云々」 と、果たして後4年和田氏の事ありたり、又太田道灌の慕景集に、「嘉吉元年5月云々、駿河の府にいたりて、云云、建穂の馬鳴のやしろなどに、志のぬさたむけ侍り云々」と見え、元亀3年の武田家の判物に、建穂寺中性院の義道坊、心臓坊は、前々の如く神役に從ふべきよし見えたり、明治6年郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿を具備し・、内は2084坪8合(官有地第一種)あり、当社祭神に付きては、古来寺僧相伝へて保食神とす、然れども毫も信を置くに足らず、旧書総国風土記に拠りて、天照皇大神となすものあるに至りしが、特選神名牒は、社号の建穂は武部なるべしとして。祭碑を日本武尊なるべしといへり、

明治神社誌料



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