足久保川北岸、山裾に鎮座する。 道は分かりにくい。橋を渡った土手の小道(分かりにくい)を川上に入る。 古くは、現在の足久保奥組栗島と足久保小学校のほぼ中間の地(東へ500mほどの地)(今の粟島公民館周辺か?)に東向に建つていたが、いつの時代にか現在の地に遷つたという。 |
足坏神社 式内社「足坏神社」と目される。当国神名帳「正五位上 葦付天神」、当国風土記に「足都機神社 蛭兒命」と所載。江戸期は白鬚明神社(『駿河記』)、白鬚社(『駿河志料』)などと称し、除地1斗7升を所有。社号の移り変わりについて『式内社の研究』は、「後世、境内社の白鬚明神が有名になったため、式社をかく称したのだろう」と推測している。明治初期、社号を足坏神社に復した。 他方、江戸後期の地誌『駿河志料』は、「当社を式社にあてるようになったのは最近のこと。根拠は故人の説のみで、はっきりしない」と所載。また、『駿河國式社備考』には論社数社も記載されている。創建年月に関しては、明治期編纂の神社明細帳に「霊亀元年3月」とあるものの、江戸期の諸史料に同様の記述は見られないことから、これは明細帳編纂のころ作られた説だと思われる。また、祭神は蛭子大神が通説だが、『明治神社誌料』は「偽書である駿河国風土記に基づくものだから、信ずるに足らず」と付記。『神名帳考證』は阿倍臣の始祖にあたる大彦命を祭神にあげている。 富士おさんぽ見聞録 http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-143.html |
足坏神社 足坏は阿志都幾と訓べし〇祭神蛭児、(風土記)〇足久保村之内天澤に在す、(参考)例祭 月日、○惣国風土記五十五残欠云、薦河安弁郡足都幾神社、所祭蛭児也、ト部兼臣承而祭之也、 神位 国内神名帳云、正五位下葦付天神、 神社覈録 |
郷社 足圷神社 祭神 蛭子大神 元と白髭明神と称す、明治の初め、式内社足圷神社なりとして、今の号に改む、創立年代詳ならず、但し霊亀元年3月創建と云ひ伝ふるよし、明細帳に見えたりといへども、例の信ずべき証あるにあらず、旧と除地一斗七升を有せり、明治8年2月郷社に列せらる。 社殿は本殿、其他社務所等を具へ、境内は220余坪(官有地第一種)あり、式内足圷神社は、延喜の制小社に列せられ、諸郡神階帳に、正五位上葦付天神と見えたり、近世新風土記等是の足圷神社を以て当社に擬するものありといへども、式社備考は之れを否みて云々、「里人足久保村白髭明神是なりと云へど更に徽とすべき事なし、其説も近世のことなり」と、又当社祭神を蛭子とすることは、彼の偽書風土記に拠るものにして、信ずるに足らす。特撰神名牒に云く、「足圷と云に、云々、足たたずと云故事を思ひよせて、云出たるものと思はる云々」姑く附記して後考を挨つ。 明治神社誌料 |