草薙神社
くさなぎじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】草薙神社 駿河国 有度郡鎮座
          (旧地)草薙神社古宮

   【現社名】草薙神社
   【住所】静岡県静岡市清水区草薙 349
       北緯34度59分39秒,東経138度27分10秒
   【祭神】日本武尊
   【例祭】9月20日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】景行天皇53年9月20日創立
       建武年中今川範国再建
       天正18年徳川家康造営
       寛永13年(1636)修復
       明治元年10月5日勅使植松少将参向官幣
       明治6年郷社
       明治12年7月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】天皇原(当社より西約七丁離れたところ)にあった
        平安朝の頃に現在の地に遷

   【祭祀対象】剣
   【祭祀】江戸時代は「草薙大明神」と称していた
   【参考HP】 草薙神社龍勢保存会
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・唐門・神樂殿・随神門・東西大門・社務所

   【境内社】天皇社

県立美術館の東に鎮座する。
日本武尊が天叢雲の剣により野火の難を免れ、賊徒を平定した旧跡を祝つた。景行天皇の東国巡幸の時、日本武尊の勲功の地に神剣を納め草薙神社と崇めたという。
草薙の剣は第40代天武天皇の朱雀元年に勅令により現在の熱田神宮に奉祀しされたといわれている。
古の社は天皇原(当社より約七丁離れたところ)より西に去ること約一丁計のところにあつたが、平安朝の頃に現在の地に遷されたという。一説に天正18年(1590年)の造営時とする。


由緒

当社は式内延喜式神名帳に「駿河国有度郡三座並小云々草薙神社」と記載されている。御祭神は景行天皇第二子皇子日本武尊を御祀り申し上げて鎮座してあります。国史社伝によれば、尊は東国の蝦夷が、叛いたので、之を平定する為、吾嬬国に赴く途中、このあたりで逆賊起こり、原野に火を放って尊を焼き殺そうとしたので尊は出発の折、伊勢神宮に参拝し、倭姫命より戴いた佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱へ、祓ひて剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払った処で手打石により日をつけた。その火は逆に逆賊の方へ烟りなびいて、尊は無事にこの難を切り抜けられました。その後、佩用されていた天叢雲の剣を草薙の剣と名称を変更になり、尚、尊を焼き殺そうとした処を草薙と言はれる様になりと、語り伝へられている。その後景行天皇が日本尊命の勲功の地を尋ねようと、53年8月に天皇は郡郷に詔して曰く「冀くば、日本尊命の征定された国郡を巡視する。」そこで天皇は直ちに出発せられ、先ず伊勢に行幸され、次いで東国に向かはれ9月20日に当地に御着になり尊の奮斗の後を封じて御親しく一社を建立し、日本武尊を奉祀し、御霊代として、草薙の剣を奉納されました。景行天皇53年9月20日(昭和60年より1863年前)依って当月当日(9月20日を以て例祭日と定めて今日に及んでおります。その後草薙の剣は第46代天武天皇の朱雀元年に勅命により現在の熱田神宮に奉祀しされました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




草薙神社

一、 御祭神 日本武尊
一、 御創建 景行天皇53年
一、 例祭日 9月20日
景行天皇第二皇子の日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、之を平定するため吾嬬国に行く途中、この地で逆賊が起り尊を殺そうとして原野に火を放った。
尊は佩用の剣を抜いて
「遠かたや しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱え剣を振り草を薙ぎ払ひ火を逆賊の方へなびかせ尊は無事に難をのがれた地を草薙という。
その後佩用されていた天叢雲の剣を草薙の剣と名稱を変更になり草薙神社に神剣として奉られる。
今より1860余年前である。

社頭掲示板



草薙神社

無形民俗文化財
龍勢(流星)煙火について
無形民俗文化財
文化財保護法により昭和59年3月16日付
静岡県選択 無形民俗文化財
保持団体 草薙神社龍勢保存会
龍勢〔流星)煙火の由来
戦国時代の天文12年〔西歴1543年)初めて火縄銃と黒色火薬が伝来したのち、城攻め用の「火矢」から転じて「のろし」が考案された。「昼のろし」へ(龍勢)は煙や布きれ又は旗などを漂よわせて「夜のろし」(流星)は、光で合図しあうものであった。
この技法が当地に口秘伝のまま受け継がれきて、更に工夫改良され、安政年間からは日本武尊を祭神とする草薙神社の秋季例大祭日に打揚げが行なわれてきました。
龍勢(流星)煙火の仕組み
この龍勢(流星)は「のろし」に始まったと言われます。
約15mもある尾竹竿に、ロケツト式火薬噴射竹筒を結びつけ、その上端部に各種の変化を仕込んである仕掛筒を固着した構造です。
発射ヤグラに掛けロケット式火薬噴射竹筒に点火すると火薬の燃焼ガスの大音響とともに、自力により上昇展開する仕組みになつている特殊の煙火です。
昭和60年11月
草薙神社龍勢保存会

社頭掲示板



昔の花火の打揚げ筒(木砲)

内径 3寸(9cm)
〃 4寸(12cm)
江戸の隅田川の川開きに花火が用いられるようになったのは、享保18年(1733年)で主役は「立花火」と「仕掛花火」や「流星」でまだ打揚げ花火はない。文化7年(1810年)清水正徳著「火砲要録」に「狼烟花火」を木砲にて打揚げたとある。この打揚花火は「長頭」と呼ばれ円筒形の茶筒のような玉に星類を仕込んでいた。「火乱星」とは直径2〜3cmの竹に黒色火薬を堅く詰めこれを割り、砕いて仕込んだ。木砲の底にハネコと呼んだ揚薬を用い、それに導火で点火して打揚げたと云ふ。其の木砲が草薙神社に数本伝えられ保管されている。

社頭掲示板



有度地域に伝わるヤマトタケル伝説

地域内に20余の伝説が伝えられている。他地域に比較して極めて多く存在し、かつ、草薙地内に集中している。
発祥の時期は不詳であるが、草薙神社の信仰が広まるとともに創作されたものと推察される。
伝説の内容と発祥地
@御犬ヶ森 字御犬ヶ谷 
尊が狩りの時、犬を放った場所という。かつて犬の栖があったと社記に記されている。(神社の南方)
A手水ヶ谷 字手水ヶ谷970
尊が狩りで汗をかいた折り、ここの清水で手を洗われた所という。
B鞍下ヶ谷(鞍卸ヶ谷) 字鐙ヶ谷986
尊が野火の難に遭った時、鞍より下りた所という。
C御座の松
尊が狩りの時、松を折り敷き、憩いをとった場所といわれ、松の下に小祠を建て、大山祇尊を祀る。
D柳ヶ沢
尊が狩りをした時昼食に柳を折って箸とした所。草薙神社の祭事には必ず柳箸を使用している。
E首塚稲荷 字東山1124(位置)
尊が征伐した賊徒の首を埋めたと伝えられる場所である。後世、野狐の栖が多くなり、一社を建て稲荷の神(宇迦之魂)を勧請した。昔はこの地から多量の人骨や古武器が出土したらしい。
F東護の森(社) 字東護1154
尊が賊徒を鎮圧した後、戦勝を報告し、さらに東方鎮定の祈願をするために、天照皇大神を祀った所という。景行天皇40年の創建と伝えられる。
G駒ヶ原 大字馬走字駒ヶ原
尊が駒を放ち、草を与えた所という。クマンバラという。元は草薙に属したが、何時の時代か馬走に売渡された土地といわれる。
H天皇社 字天皇原61番地(大鳥居跡付近?)
景行天皇が日本武尊を偲び、この地に行幸した時、鳳輦を留めた場所と伝えられ、この地に天皇の神霊を遷した天皇社(明治末年草薙神社に合祀)を建て祀っていた。古地名ではこの一帯を天皇原と呼ぶ。
I古宮 字天皇原56番地
草薙神社が最初に創建された所。
古伝では、景行天皇53年、天皇が東国に巡幸の時、日本武尊を偲び社を建てたという。現在、小社が存在する。

社頭掲示板



草薙神社

くさなぎじんじや 静岡県清水市草薙。
旧県社。祭神は日本武尊。『延喜式神名帳』に駿河国有渡郡草薙神社とあるのはこの神社であるとされる。景行天泉の第二皇子である日本武尊が東国征伐の時、天叢雲の霊剣を自ら抜いて草を薙ぎ払い、野火の御難を逃れられ、賊徒を亡ぼした旧跡に鎮座しているといわれる。中世以降は武家の尊崇も篤く、武田氏・本多氏・豊臣氏等が山林安堵の禁制を下している。徳川家康は、天正18年(1590)社殿を造営し、また慶長7年(1602)には朱印地五〇石を寄進、以後代々の将軍家により安堵された。明治元年(1868)10月5日、明治天皇は御束幸に際して勅使を遣し奉幣せしめられた。同12年には県社に列している。例祭9月20日。

神社辞典



草薙神社

草薙は久佐奈岐と訓べし、○祭神日本武尊、(参考)○草薙村に在す、(参考)例祭月日、〇当国蘆原郡久佐奈岐神社あり
惚国風土記五十三残欠云、駿河國有度郡草薙神社、香具山日記曰、天照太神以天孫瓊々杵尊、欲爲豊葦原中津國神君、既欲天機之時、左御手持携八坂瓊之曲玉、右御手携天叢雲劔、叢雲或称草薙劔、號叢雲者、素戔鳴尊欲下根國吟出雲國之時、出雲與伯耆國之境有簸川、其川上常在有大蛇横行、松栢生背、其径八尋(阿里弖)蔓延於八丘八谷之間、其眼如赤酸醤、頭尾各有八岐、因之史家謂八岐大蛇、不云大蛇可謂於呂地、取於土魯於十櫓志機之義也、其大蛇之常住之傍有奇雲氣、云々、依之戔尊誅之寸々而至尾劒刃少欠、故割裂其尾観之、尾中有一奇神劒、尊取之名草薙亦別名也、草者生無主之地、此葦原自天孫降臨無草叢之神、専其國輝然焉、繁草逢利劒如払其草葉、故天孫降臨之後有草薙之號、又齋部記云、取焼鎌乃敏鎌之義、又善哉、胸與腹之間中、八咫鏡神祝曰、天孫視吾如視此三種之宝器、又同床共大殿(弖麻志止)、自此天嗣不絶、以此三種之靈被奉持之、云々、依之見之則草薙者叢雲之別名也、一書曰、日本武尊越東夷難、至駁河國浮島原與阿部市、東夷欺尊、託狩猟令遊御廣野、日中縦火、于時十月之旬衆草枯死而宜添火、恰如塗油姻、巳進而尊之軍危、所帯之叢雲劔自脱払此野火、依此有草薙名、此事大謬也、唯自神代同名而、此神社者所祭天照太神之地也、(以上の文信用し難しといへども、博覧の為に載す)
類社
伊勢國渡會郡草名伎神社の條見合すべし
神位
國内神名帳云、正五位下草奈岐天神、

神社覈録



縣社 草薙神社

祭神 日本武尊 誉田別尊
伝へ云ふ、景行天皇53年、天皇東國巡幸、同9月20日、鹵簿を是地に駐められ、尊の神霊を鎮め給ふ、故に其の処を天皇原といふ、初め社地は、現地より稍西方に在りしが、天正18年台命に依りて、今の地に奉遷すと、日本書紀景行天皇40年の條に、
冬十月、日本武尊、初至駿河國、其処賊陽從之、欺曰、是野也簾鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林、臨而応狩、日本武尊、信其言、入野中而覚獣、賊有殺王之情、放火焼其野、王知被欺、則以燧出火之、向焼而得免、(一云王処佩剣叢雲自補之、薙払王之傍草、因是得免、其剣曰草薙也、叢雲、此云茂羅玖毛)
と見えたるは是地にして、又当社の起源たり、廷喜式に有度郡草薙神社と見え、小社に列せらる、實に当國二十二社の一たり、神位は諸郡神階帳に、正五位上有度郡草奈岐天神と見ゆ、古來武将の崇敬厚く、往昔は社領千五百石を有せり、永正以来当社神職たりし森家に、当社に関する古文書数通を蔵す。曰く、天正8年9月27日山林之制條、江尻城主武田信君朱印、曰く同10年6月19日本多作左衛門制條、曰く同17年豊臣太閤家三ヶ條制禁朱印、曰く同18年社領朱印(明細帳云高十八石)曰く同戌4月24日中村家長横田内膳正制條、次いで慶長7年12月8日徳川氏、社領として郷内朱印五十石を寄す、諸社御朱印写に云く、
「草薙大明神、社領、駿河國有度郡草薙郷内五十石事、並小林竹木諸役等免除、任慶長7年12月8日、元和3年2月4日、寛永13年11月9日、朱判之旨、永不可有相違者也、
寛文5年7月11日」
と、是より先、天正18年、家康当社を再興す、棟札に云く、
「奉造立草薙大明神一宇、駿州有度郡入江庄草薙村(天正18年5月吉日)」
大檀那徳川家康、神主森彦三郎たり、然るに同社殿宝永6年の地震に大破し、7年勤化御免ありて再興す、後ち天保2年嘉永2年又勧化御免ありしと、明治元年御東幸の砌、同年10月5日、勅便植松少將参向、官幣を奉らる、6年郷社に列せられ、12年7月24日縣社に昇格し、41年8月八幡神社を合併す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神樂殿、神饌所、神庫、番所等を備へ、境内2570坪(官有地第一種)あり、社頭に神木と称する樟樹あり駿府内外社寺記抄に内周廻り十三間、高一丈八尺余、此上枝葉有り云々」伴氏考証に「其脇にうつろあり、内方一丈四方計あり、内へ入りて見るに、屋室の如し、其根の方は石に化したる処あり、又朽ちたる処あり、其上より尋常の大木云ふべきほどの楠を生じ、枝葉しげれり、実に稀有の古木たり」と見えだり、

明治神社誌料



駿河国INDEXへ        TOPページへ


認定こども園